人生攻略法を考える

哲学を使って人生の選択に最適解を出していきます。

豊かな暮らしとは

お久しぶりです。

 

1年前に思い切って1万円のゲーミングキーボードを購入したのですが

早くもEボタンの効きが悪くなってきていて悲しいです、笑

長持ちはして欲しいですね〜

 

ということで本題に入りますが

本日は豊かな暮らしについて考えたいと思います。

 

ーーー豊かな暮らしとはーーー

 

豊かな暮らしとはどのような暮らしでしょうか。

 

豊かな暮らしと言えば私たちが理想とする暮らしのことを指すはずです。

 

つまり、

1.我慢をしなくても良いこと。

2.ストレスフリーであること。

3.良いものを揃えられること。

4.伸び伸び健康的であること。

 

この4点のある暮らしということになります。

 

 

 

ーーー1.我慢をしなくても良いことーーー

 

 

これは節約によって何か自分が欲しいもの、行きたいところに

制限をかけずに、発想をそのまま実現することができることを指します。

できない理由、しない理由を作ってしまうと人生の幅が狭まってしまうので、

自分のインスピレーションを大事にして人生に彩りを与えられることが望ましいですね。

 

ーーー2.ストレスフリーであることーーー

 

 

そして、次に大事なのがストレスフリーな空間であることですよね。

家は職場や学校などのセカンドプレイスから帰ってきて最も癒されるべき

自分や大切な人とのファーストプレイスであることが理想です。

家では全てのストレスから解き放たれたいものですから、そうした空間が

豊かな暮らしには必要不可欠と言えるでしょう。

 

 

ーーー3.良いものを揃えられることーーー

 

 

現代の豊かな暮らしと言えば、最高の技術、最高の科学を元にした

便利で健康的な暮らしですよね。デザイン性もさることながら、味や機能も

備わった素敵なものが多く溢れているので、そうしたものを生活に取り込む

ことができたら生活は豊かで華やかになりますよね。

 

 

ーーー4.伸び伸び健康的であることーーー

 

 

どうにも不足しがちな運動ですが、常に運動が身近にある環境であればどうでしょう。

運動がしたくなるような環境で、ゆったりだったりストイックだったり、

自分のペースで爽やかな運動ができれば体と心の健康を保つことができますね。

 

 

以上の4点になります。

これらの生活を実現するための情報もお届けできたらと考えています。

 

また明日もがんばりましょう!

 

節約収入について

今日1日になりますが、初めてTwitterをやってみました。

 

普段絡まない年代、絡まない層と交流ができて

面白かったですが、自分を見失いそうになりました笑

 

一体、僕は何をしているんだ?

 

と我に返ったところで、本題に入ります。

 

節約収入という考え方

 



 

収入には数種類あります。

 

  1. 給与収入
  2. 事業収入
  3. 配当収入
  4. 権利収入

 

ざっと思いつくだけでもこれぐらいですかね。

 

とはいえ、多くの人には1の給与収入しかないと思います。

この給与収入は、基本的には固定の金額が毎月入ってくるだけで、

増加する、という考えは今の雇用形態の考え方が変わっている時代には

少しズレがあるかもしれません。

 

ですが、給与収入しかない人でも収入を増やすことが可能です。

 

それが、節約収入の考え方です。

節約収入とは、つまり、節約することによって収益を得るという考え方です。

 

例えば、お昼ご飯に普段1000円使っているとします。

ここで、普段通りであれば1000円を支出として使用するのですが、

我慢や工夫をして500円にしたとします。

 

すると、500円支出を減らすことができるのです。

 

この500円支出を減らすという考え方は、

違う視点で見てみれば、我慢や工夫をすることで手軽に500円稼いだ

と受け取ることもできます。

 

つまり、こうした節約そのものが収益を得る手段として考えられるわけです。

 

最終的に特定の期間では収入よりも、支出を含めた残金の方が

現在の自分の経済状況を把握するのに正確だったりします。

 

そのため、無駄な支出を減らすことで節約収入を得ましょう。

 

ちなみに無駄な支出とは

 

・目的以外の付加価値のあるもの

・代替品が安いもの

・見栄のために買うもの

・自分の人生に役に立たないもの

 

こうしたところに宿ります。

 

例えば僕なんかは車がそれにあたるんですが、

僕にとって車に対する目的は、「自分以外の人を乗せる」こと以外ないので

車必須と言われている地方に住んでいますが、買っていません。

 

当然車代も維持費も支払っていませんし、

その分は買っている人より貯金ができています。

僕の場合、「自分が乗りたい」という願望がないので、

「みんなが買っているから」という理由で買ってしまえば、

それは不要な支出であると言わざるを得ないのです。

 

ということで、副業するのも面倒だし、

投資をやるのも面倒だというかたは、

確実に稼げるので節約という収入源をぜひ確保して頂ければと思います!

幸福論について〜外部からの幸福操作に思考で対抗する〜

こんにちは。

仕事やプライベートが忙しくあまりブログを書く時間が取れません。

 

ただし、本当に時間がないわけではなく、大人になってから

あらゆる時間をのんびり過ごすようになっているので、相対的に

昔に比べて時間がないように感じているだけですかね。

 

本題前の余談なんですが、

昔の自分に比べて時間の過ぎるスピードが良くも悪くも早くなりました。

 

例えば小学生の頃の授業45分。

とても長かったです。

寝て起きても5分しか経っておらず絶望したものです。

 

中休みの20分

外に出てサッカーをしていました。

 

習い事の1時間。

やるべきことやプラスαを行ってまだなお、

顔見知りの友人達と談笑したり遊び倒す時間が残っていました。

 

さて、現在になります。

私はSE兼プログラマーをしているのですが、

プログラムを作るのが予定の日に、実際にプログラムソースを触るのは

始業の1時間後です。

 

これは明確に1時間を別作業に確保しているわけではなく、

気づけばそんな時間になっているという話です笑

自分以外の従業員を見ていても大体はそんな感じです。

 

子供の時はとてつもなく長かった1時間が今は本当にあっという間です。

子供の頃にすでに今の仕事をしていた方が生産性があったのではないかと

ふと思いました。

 

ある人は問題ないと思いますが、生産性には

「元気」というものはつきものだと深く感じている今日この頃です。

 

元気になる方法もそのうちまとめたいですね。

(僕が一番知りたいですが、、笑)

 

〜外部からの幸福操作に思考で対抗する〜

 

 

さて、本題に入りますが、

前回は「幸福に思考は必要か」というテーマでした。

前回時点での結論では、

 

思考は幸福や不幸の観念を増幅させるものであり、

それによって幸福か不幸かというものを決めることはできない。

 

といったところに落ち着きました。

とはいえ、何も考えてない人ほど人生楽しそうなので、

増幅させるものは不幸の観念だけになるような気もします。

 

夜な夜な考え事をするより、一番は悩みに対して1つの最良と思われる決断をし、

その決断した行動によって起こり得る結果を受け入れ、

とっとと寝てしまうのが最も不幸から遠ざかる方法でしょうから。

 

また、前回のテーマでは

・幸福の要因は与えられた環境によって決定する。

・現代では与えられる刺激が多すぎて対処が困難である。

といった、問題点が浮かびました。

 

今回は、これに対して対抗しうる「思考」はどのようにされれば

適切かどうかを考えていきます。

 

では、まず最も現代人を不幸にしていると思われる要素2点を挙げます。

1)他人からの評価

2)お金

 

もし、幸福の条件が「あるがままの自分」であれば、

この2点は「あるがままの自分」を阻害します。

 

1については簡単なところで言えば、生まれもった「外見」や「才能」。

2については誘惑への節制ですね。

 

例えば1の場合、

もし私たちが他人から評価されたいと感じて、

その欲求のままに素直に行動できたとしたらここに大きな問題は発生しません。

大抵は試みに対するフィードバックがあり、それは評価基準に対して

適切な不足を示してくれるからです。

その場合、私たちはそのフィードバックに対して愚直に従うだけで評価は上がっていきます。

 

ただし、そのような取り組みに対して、特定の解釈が人に不幸をもたらします。

それは、生まれ持った生得的な性質により生涯をかけて埋めようがない差が存在し得るというものです。

もし、自分自身で状況を変えることができない。

望んでいるものは一切手に入らないとなれば人は努力をする理由がなくなってしまいますから。

 

また、人は自分が想定する結果より悪い結果が出た時にそれを一時的に

認めたくない心理が働き拒絶するものですが、そうした時にも

この生得的な理由が用いられることがあるようです。

 

ここで、思考には2種類あることを説明しておきます。

1つは、建設的な思考。

2つ目は、そうでない思考です。

つまり、状況を好転させ得る狙いのある思考と

なんら状況を好転させない現状維持の思考です。

 

この生得的な理由については後者の思考となります。

仮に生まれ持った埋めがたい差が他者との間に存在していたとしても

自身に成長の必要性があるという事実は変わりません。

つまり本来は、1番にはなれないが適度な程度を目指すという妥協が必要となるのですが、

1番になれない=何をしても無駄 というように結論づけてしまうのです。

 

このようなネガティブな思考のことを「反芻(はんすう)」と呼びます。

何をしても無駄だと自分で結論を出しているのにも関わらず、

結局はまだ自分の欲しいものを諦めきれず、毎日同じ問題に同じネガティブな

結論を出して堂々巡りをします。

 

このプロセスは次第に複雑化していき、思考がこんがらがった結果

中々ほどけない厄介な問題へと昇華します。

ただし、厄介さは本人だけの中にあり、第三者視点で見れば

さほど厄介な話ではなく、単純な一言で済んでしまうものばかりです。

そうした他者からの正論の解決を拒む当人はこれにどうしても自分の場合は複雑であり、

他の同様の環境に置かれているような他者とは違うという理由づけ、もとい

解決の先延ばしのための自己正当化をするようになるのですが、

このような非合理的な理屈を正当化させる試みは、その理由すらより複雑である

必要性が生じてきますので、より問題は複雑化していき、もしそれが当人の

事情によるものとされれば、当人はその事情すら正当化しなければならないので、

より一般的な感覚とはかけ離れた問題を抱えることになります。

 

例えば職場で嫌なことがあって仕事を辞めた時に、この段階ではまだ

多くの人間にとって共感される事象であるにも関わらず、

自分は働くことができないという理由をつけてしまった場合、

本来働ける状況にあるにも関わらず労働を放棄せざるをえない状況を演じなくては

ならなくなり、これは当人にとっても良くないことで、かつ当人自身も

心当たりがあるために、自己正当化するために労働は悪だという

極端で一般的な感覚からかけ離れた思想を持つようになってしまいます。

 

こうなってしまえば、今はかろうじて生活ができている状態であったとしても、

その状況が破綻したときにようやく遅すぎる後悔をすることとなります。

これは当然のことながら、全くもって当人にとって良い結果ではなく、

そこに導く思考は間違っていた、ということになります。

 

では、ここに思考を介入させてみましょう。

もちろん、不幸な状態にならないための思考ですからこれは建設的な思考にあたります。

 

「職場で嫌なことがあった仕事を辞めたい」

嫌なこと

・嫌なやつに嫌なことをされた

・給料が安い

・時間外労働が多い

 

解決法

・嫌なやつに嫌なことをされた

→人間関係について勉強をする、人付き合いが少ない職場を選択する。

・給料が安い

→生活コストを減らす、キャリアアップ転職をする。

・時間外労働が多い

→転職をする。

 

つまり、単純な解決方法は「転職をする」です。

この結論を導き出すことは誰でもできますし、時間もかからず容易です。

 

では、すぐに終わることに何故問題が発生してしまうのでしょうか。

 

それは、「転職」には「努力」と「面倒」が伴うからです。

もっと言えばそれを受け入れることができないからです。

・努力はしたくない

・面倒なことはしたくない

・会社は辞めたい

 

となると、会社を続ける選択肢も転職をする選択肢もなくなります。

では、そうなると次の最善の選択肢はどうなるでしょう。

 

・恥を忍んでヒモになる。

社会保障で暮らしていく。

 

確かにこれなら「努力」しなくてもいいですし、「面倒」も転職そのものや

転職したその後に比べたら遥かに少ない量で済みます。

 

しかし、一度この立場になった時に、以前自分がいた場所まで戻るのには

当時に比べてとてつもない「努力量」と「面倒さ」が伴います。

以前の努力量と面倒さに辟易としていた当人には、その壁はより高く感じるでしょう。

そこまで加味した場合、もはや「生涯普通の暮らしには戻らないという覚悟」が必要になります。

 

また、生活が保障されなくなった場合、もはや生きていくことは困難になります。

 

ですが、今の自分がよければ未来の自分が困っても構わないというのは

非建設的な思考の果てに発生する、選択のようで選択ではない決定です。

 

これを「現実逃避」と呼びます。

 

少しまとめます。

最良の答えは最初に出ている。

・そこから「逃避」することで次の選択肢が生まれる。

・「逃避」の果ては生存の困難。

 

この記事の最初にも書いたのですが、

何も考えてない人ほど幸せそうであるというのは得てして間違っていないようです。

 

思考によって最良の答えは最初に出るのです。

 

それに何かしらの理由をつけて、消しゴムで消して書き直すのは自分です。

 

ですが、ここで終わりではありません。

「転職」にしても、どこへ転職するか考えなければなりません。

ここで深い思考をすることができれば、より良い結果は得られるはずです。

 

ということで、例のように職場で不幸を与えられた時に、

このような思考は自分のためになりそうですね。

 

 

 

 

 

では、話を元に戻しまして、

これを「他人からの評価」、「お金」に当てはめたいと思います。

 

実は「転職の例」とはこの2つは少し意味合いが変わります。

「転職の例」は強制的に不幸な環境を与えられたケースですが、

「他人からの評価」、「お金」の場合、その環境が不幸であるかどうかは

人によって全く尺度が違います。

 

例えば「お金」で言えば

年収450万以下から不幸だと感じる人もいれば、

正規雇用から不幸だと感じる人もいます。

また、職があるだけまだマシだと、下の基準設定を見ればキリがありません。

 

つまり、同じ立ち位置にいる人でも、幸福な人もいれば不幸な人もいます。

厳密に言えば、当人がそう感じているということになります。

 

これが、今回のテーマの「幸福操作」に繋がってきます。

例えば年収450万円の人が自分は平均だからいいだろうと思っていても、

それ以上の人達に囲まれ、かつ、生活レベルを比較され見下されるようなことがあれば、

この価値観は変わらざるを得ません。

これをここでは便宜的に「幸福操作」と呼んでいます。

 

さて、小学生のなりたい職業の上位がどうやら

Youtuberだとかプロゲーマーだとか、投資家なんてのもありましたかね、

いわゆるお金持ちに該当する職業となっているようですが、

このような価値観に晒されていると、いざ自分が就職した時の初任給との差で

自分はお金がないという認識に陥ってしまいます。

しかし、有名人と同じものを買いたいので支出は大きくなりがちです。

 

また、「外見」についても同じです。加工や整形、また、元々容姿のいい有名人が

こぞってメディアに基準を作る結果、

標準的な外見をした人は自分を醜いと錯覚してしまいます。

 

ブランド品やおしゃれについても同じです。

 

つまり、本来であれば上位数%の値が標準値であると錯覚してしまえば、

多くの人間が不幸であるという認識に陥ってしまうのです。

 

さて、ようやく本題ですが、

この操作された「幸福観」に思考で対抗することはできるのでしょうか。

 

結論から言えば可能です。

 

最も効果的なのは、「気にしないこと

つまり、「他者と比較しないこと」ですが、

自分より上がいるということを知らなかった時はいいですが、

一度気にし始めてしまうともう「気にしないという状態」に戻るのは難しいです。

 

そのため、気になってしまった場合は、上位に入る努力をすれば良いのです。

 

とはいえ、先程の「転職の例」と同じで、努力は面倒です。

「反芻」や「逃避」を続けた方が楽な感じがしてしまいます。

 

しかし、思考は良い行動への足掛かりというように捉えれば、

これもまたいい機会のような気がしますね。

 

気にならない人はとことん気にならないようですから、

気になっている方はステップアップするチャンスと捉えた方が良さそうです。

 

 

 

ということで、今回のまとめです。

・思考で「幸福操作」に対抗することは、努力をすることで可能になる。

・思考から最良の解決法は「最初に」導き出される。

 更なる思考はその中でより良い方法へのアプローチである。

・努力を放棄するのは「逃避」であり、不幸になる。

 

 

思考とは改善点を見つけて、人生の過ちについて補修をかけていくものなのかもしれませんね。

 

幸福論について

前回は久しぶりのブログだったので、リハビリ兼ねて

駆け足になってしまいました。

仕事が終わって寝るまで少し時間あるな!と思って書き始めたのですが、

長文長時間の癖は抜けていなかったようです笑

 

 

さて、今回も幸福論について考えていきます。

 

今回はテーマを決めます。

 

「幸福に思考は介在するか」

 

このテーマは少し厄介な表現だと思います。

噛み砕いて言えば、思考をしないこととすることどちらの方が

幸福か、ということです。

このテーマを解き明かしていくためにはより幸福について深掘りした理解が

必要になってくると思うので、今回の試みでは綺麗な答えにはならないはずです。

体裁を整えて徐々に答えに近づいていきたいですね。

 

では、考えてみましょう。

思考をするAは人間とします。

思考をしないBはアリとします。

 

この場合アリの気持ちを理解しなければなりませんね。

それは難しいので、見てわかる判断材料で判断します。

 

人間は自殺をします。

アリは自殺をしません。

 

よってアリは人間よりも幸福です。

この答えを出してしまうと、人間以外に生まれれば幸福ということになります。

 

では、自殺をするAを人間とし、

自殺をしないBを家畜とします。

 

ここで、アリと家畜の違いが明確に分かります。

屠殺される家畜が幸福であるとは家畜の気持ちになればいえませんね。

違いがあるとすればここです。

 

アリの気持ちになることは難しいですが、

家畜の気持ちになることは容易です。

 

理由は家畜には感情があるからです。

 

つまり、幸福かどうか判断するには「感情」が大きく関わってきそうです。

 

では家畜ではなく、遊び回るペットに変えましょう。

ペットが遊び回る場合、彼らはご機嫌ですから「幸福」と言えるでしょう。

 

家畜のような扱いを受ける動物は「不幸」とされます。

ですが、ペットのような扱いを受ける動物は「幸福」とされます。

 

さて、ここいらで整理ができてきたので、一旦話を人間に戻しましょう。

 

人間の幸福には「感情」が大きく関わってきます。

良い感情であれば「幸福」で、悪い感情であれば「不幸」です。

 

ここに思考が介在しなければ、

つまり、与えられた環境によって「幸福」か「不幸」か決まることになります。

 

ただし、もし思考を介在させるとするならば環境に決められた幸福感を

2種類の方法で変化を起こすことができます。

 

1:その環境から違う環境に移る。

2:自分を幸福、もしくは不幸だと思い込む。

 

この2種類の方法は、幸福であっても不幸であっても取り得る手法で

互いから互いの行き来が可能です。

 

そのため、思考を介在させることでは幸福か不幸どちらになるかは定めがつかないことになります。

 

最初に喩えに出した不幸の極地、自殺ですが、これは負の思考の果てに

発生するものです。

 

もし思考が介在しない生物であれば自殺という極端な結論に辿り着かないでしょう。屠殺される動物は屠殺されるその日まで基本的には穏やかな日々を過ごすはずです。

 

ですが、もし人間が同じ環境にいたとしたら仲間が1人ずつ減っていくことに

違和感を覚えて、いずれは自分が屠殺される事実に気づき、恐怖に苛まれる日々を

過ごしていくことになります。

 

人間の知能からくるこの負の感情もとい思考は、この局面から考えるに

窮地から脱するための脳の指令であることがわかります。

それが可能かどうかに関わらず、少なくとも脱走をしたいという気持ちに

駆られることは間違いありません。

 

ですが、このような自己の生存を脅かされるような状況のストレス化において

人は不幸であり続けます。

その極地が自殺であるならば、これは人間の本能の誤作動という他ありません。

 

現代ではそのように人間の本能を誤作動させるきっかけが

ありふれているということになります。

 

これは不幸に関する事柄だけでなく、幸福もまた同じです。

ギャンブルなどは脳の報酬系回路を刺激して、損をしているのに幸福を錯覚させます。

 

つまり、不幸な人が世に溢れ、また、不思議と幸福な人が多いのも

人が人へ与える環境の結果に他ならないということです。

ですが、それらの例を考えるに、どうやら思考はあまり介在し得ないようです。

あったとしてもそれらの幸福や不幸の蜜を啜る自己正当化のために思考は

本来あるべき役割を全うできていない状態と思われます。

 

 

さて、今日はここまでとしておきます。

次回というかできれば明日ですかね、

不特定多数の人間が不特定多数の人間の幸福、不幸を操作している中で、

思考をもってその状況を逆転できるかについて考えてみたいと思います。

 

幸福論について

前回の記事から71日経っているようで戦々恐々としております・・。

足跡つけて下さった皆様ありがとうございます。

ブログに訪問させていただきましたが、もはや1つのWEBページのようで

驚きました。はてなブログはここまでできるんですね笑

 

さて、僕もブログをカスタマイズしてみたいとこですが、

本日の就寝予定時刻まで記事1つ軽く書いて終わる程度しか時間がないので、

またの機会に面白おかしく触ってみようと思います。

 

本日の幸福論について

 

毎日幸福とは何か考えて生きてるので71日あったら71回は考えてるってことですね。

今日は人が幸せになるためにはその幸福要素がいくつか必要になると思うのでそれらを

いくつかあげて考えてみます。

 

①お金

②人間関係

③時間

④趣味

 

幸福には幸福の要素の他に不幸の要素を持っていないかだなんて観点もありますが、

とりあえずプラスの部分だけ見ていきましょうか。

 

①お金について

お金はあらゆる可能性を生みます。

お金はあらゆる要素へ変換できます。

お金はお金単体としても幸福になるために必要ですが、

他の要素へ変換できるためあればあるだけ良いでしょう。

 

ただし、お金を稼ぐ方法は非常に少なく難しいです。

 

一般人が大金を稼ぐ手っ取り早い方法は2つあります。

1つは、良い大学に入ること。

2つ目は、夜のお仕事をすることですね。

ですが、僕も含め多くの人はこの選択肢から溢れてますよね。

そのために、お金を稼ぐことにそこそこの労力を注ぎ込まなければならなくなってしまっています。

 

また、日本人はどんどん貧乏になっていっているという話があります。

貧乏になるすなわち、ことお金に関して僕たちは不幸になっているということです。

物価の上昇に加えて税金の支払いですね。

かつて80円で買えたものが今では150円ほどになっていますね。2倍ですね。

単純な計算ですが、かつての100万円は50万円の価値になっているということですね。

50万円の損です。

とはいえ物価の上昇した現在では、その値でしかものが買えないので

この考え方は少し違っているといえますが、ただし、同じ金額で同じ量のものを

買おうと思えば現在は過去の量に比べて50%の量しか買えない結果となります。

 

物価の上昇は緩やかに進み、かつ、僕はせいぜいお金のなかった子供の頃が比較対象に

なってしまうわけですから、あまり現状の悲惨さに気付くことができません。

ですが、当然今のお金でやっていけるかという現状と未来を考えれば

決してお金について幸福であるという自己評価に至ることはないでしょう。

 

世の中にはお金と幸福の関係性が薄いと言う人々がいますが、

彼らはお金の問題から脱却できているだけで、その課題が残されている人々にとっては

十分に見直す必要のある関係であるといえます。

 

 

②人間関係について

人間関係は人間が直接幸福を得るための手段と言えます。

ですが同時に人間が直接不幸になる手段とも言えます。

その振り幅が大きすぎるが故に重要な要素といえます。

 

人には相性というものがあります。

この相性が合致しお互いに協力関係になれた時にこの人間関係は

幸福度が強いものになります。

ですが、この逆で敵対関係のある人間関係は不幸度が強いものになります。

 

気の合う友人同士だけで人間関係を完結させることができれば、

永久の幸福が確約されます。

ですが、多くの人々にとって人間関係が悩みの種となっているのには、

そうではない理由があるからです。

 

1つは友人と疎遠になることです。

毎日遊んでいるだけでいいのであれば、それほど楽なことは誰しもにとってありません。

ですが、人生において遊び以外に割かなくてはならないリソースというものは存在し、

かつ、それらの重要性からそれらのリソースの余った部分を遊びに割り当てる

といった形が多くの人の間で取られ、この割り当てにはX軸、Y軸という場所と

Z軸である時間が影響するので、あらゆるタイミングが合致する機会でようやく遊びを

成立させることができるとすると、多くの人間関係で多くの機会は設けられないことになります。

すると、友人と会う遊びは人生のルーティンの中から抜けていってしまうのです。

 

2つ目は気の合わない人と強制的に関わらなければならないことです。

人間とは不思議なもので同じ種族の仲間であるのにも関わらず、

ただコミュニケーションを取るだけで不快な気持ちになる関係は必ず発生します。

そしてまた不思議なもので、この関係の存在は否定されるべきものではないという

社会的なあり方が認められています。

この誰にとって得をするかわからない暗黙の了解によってほぼ全ての人間が

苦しめられています。

 

この2つの問題点から脱却することができれば、人間関係については問題なさそうですね。

つまり、人々が抱えている義務から各が解放される必要があるということです。

教育の義務、労働の義務などですね。

多くの人にとっては、教育の場、労働の場が良き出会いの場となるので全ての義務を

昇華させる必要はなさそうですが、これらの義務から解放されるためには、

どうやらお金が必要なようです。

 

 

③時間について

時間がないと自己を確立するのが難しくなります。

自己の確立は主にプライベートの中に存在するので、そのために時間確保することは

幸福概念上必要なことと思われます。

自己の確立とは特定のコミュニティへの所属も含まれます。

 

ということで、時間を確保したいですね。

時間を確保する方法は2つあります。

 

1つは労働時間を減らすことです。

労働時間を減らすということは、対外的な考慮も行えば、より良い職業につくということになります。

またその先には、労働そのものを行わない不労所得により労働時間をなくすという

方法が存在します。

 

2つ目は時間の無駄遣いを減らすことです。

労働に割かなければならない時間、家事に割かなければならない時間は

誰しもに存在します。

そして余った時間、それぞれの使い道があるかと思いますが、

全く自己の確立に必要のない時間は送らないことが無駄な時間の削減になります。

自己の確立に寄与しない行動とはすなわち、自己の利益とならず、理想の未来の自分に

不要なものを獲得をするような行動です。

例えば、誰と共有するわけでもないテレビ番組の視聴は無駄な時間です。

ですが、共有する相手がいてかつ、会話をする予定があれば無駄な時間とはなりません。

ただし、それよりも優先度の高い自己の確立性が存在し、限られた時間が競合する

場合には後者のケースでもそれは無駄な時間となります。

受験生にとって必要以上のテレビ番組の視聴と会話、共有は自己実現の妨げになる恐れがあります。

 

 

④趣味について

趣味は幸福を語る上で最も重要なものであると僕は考えます。

人間は好きなことに熱中している時に最も幸福感を得るので、

趣味の確立はできるだけしておきたいところですね。

 

趣味がある場合、

お金を稼ぐ気力が生まれます。

ストレス解消ができます。

仲間ができます。

夢や目標が生まれます。

 

趣味がない場合、

なんのために生きているかわかりません。

お金があっても不幸せです。

ああでもないこうでもない時間の使い方をして後悔します。

感情の動きが少ない人生になります。

 

良い趣味と悪い趣味の違いについて考えます。

その判断基準は2つあります。

 

1つはどういった仲間ができるか

2つ目はお金がかかるかですね。

 

ギャンブルが趣味だと刺激的な友人ができますが

あまりいい影響にはならなそうです。

また、お金も貯めてはなくなりを繰り返してまとまらないでしょう。

 

ものづくりが趣味であれば

情報交換ができたり良い関係が築けますね。

ビジネスに繋げればお金にもなりそうです。

 

 

 

以上4点まとめましたが、

やはりお金の問題がどこにいても付き纏いますね。

この課題がクリアされる、もしくは度外視されることによって

幸福が生まれていくと思うので、

収入か支出かどちらか理想的な値としたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸福論について

以前、幸福論について考えたことがあります。

3年前のことでしょうか。

その時に僕は人が人生を生きる意味は幸福になるためであると言っていたようですが、

少し考え方が変わったので記述しておきます。

 

人間が生まれてくる理由は、人間の繁殖というシステムに基づいた無機質的なものであるという事実が存在します。

人は幸福になるために生まれてくるのだ、という以前の考えは後付けの恣意的な理由です。

おそらく、この論は人間が生きる上では目的が存在するはずで、その目的はポジティブなものであるべきだという希望論のようなものだと思いますが、

この幸せの希求というのは非常に難しい問題であるために、あまり目的として固執するような概念ではないように感じている今日この頃です。

 

例えば、幸せを手に入れるために僕らが何をすべきかという以前の考え方からすれば、

自分が美味しいと思うものを食べよう。というのが1つの答えであったと思いますが、

かと言ってはたして本当に美味しいものを食べ続けていいのかという疑問があったりします。

 

2ちゃんねる創設者のひろゆきさんは、「生活レベルをあげるな」ということを言っています。これはつまり、いい食べ物やいい洋服を日頃から好んで購入していると、

幸せを感じる基準がそのレベル以上になってしまい、幸せを購入する単価が上がってしまうというものです。これを心理学では「限界効用の逓減」というのですが、

結局いいものを買ったところで一時的に幸福になったような錯覚に陥るけど、長期的に見れば不幸になりやすい状態になっているので、生活レベルをあげるのはよくないよねという結論がある程度正しいのではないかという話です。

 

僕もこの意見には賛同で、僕にとって一番幸せな時期だったのは、小学校、中学校の頃友人とゲームに没頭していた時だったなぁということと、

人生で食べた中で一番美味しかった食べ物は、3日間の断食後に食べた100円のクリームパンだったなぁということから

いいものを買えば暮らしが良くなるというのは割と違ってるんじゃないかなと思っているところがあるんですね。

ちなみにこの美味しいクリームパンを再現するために最近、朝と昼を抜いて

3時ごろにクリームパンを買って食べてみたんですが、やはりとても美味しかったです。

 

話を戻しますが、特にこの2つはお金がかからないんですね。

最近貯金に興味を持ち始めたんですが、人間突き詰めるとどこまで支出を減らせるのかというちょっとした限界に挑戦する日を設けています。

働き始めの頃は「お金がある=使える」と思って欲しいものはすぐに買っていたし、

それが自分が納得できる生き方だと思っていたので当たり前だと思っていたのですが、

ふと思えば自分が一番楽しかった時期はお金なんか子供のお小遣いほんの一握り程度だったことを思い出したのです。

 

100円でポテトチップスを買っていた頃から、

美味しいとは言え大好きなビーフジャーキーを買うようになって、支出が4倍ほどになっているんですね。

当然、収入が違うわけですからそういう暮らしをしていても何ら問題ないわけですが、

一説にはこれは必要のない支出であるという考え方があるのも事実です。

クリームパンが美味しいならクリームパンを買えばいいということですね。

 

ただ不思議とものを買う前はこれじゃないと自分は納得できないと思ってしまうもので、ここの頑固な自分をどう説得するかが鍵になるわけですが、

Aプランを望んだ自分に無理くりBプランを適用しても、結局1日たてば

どうでも良くなってしまうので、ここを何とか乗り越えて無駄な支出を減らしています。

 

新入社員だった頃に1年で100万円貯めようと目標を立てていたんですが、

この時先輩社員に100万なんか貯まるわけがないというように言われて、

実際に60万ほどしか貯められなくて、貯金って難しいなと思っていたんですが、

今は割と散財していてもかなり貯金できるようになって、当時自分は何に苦労していたんだと思っています。

 

ちなみに参考までになんですが、

僕の家にものは増えてないし、本当に必要なものしか買っていません。

食べ物や飲み物も安いものを選んでいます。

あとは遊びではものすごく散財はしています。

心理学では「心理会計」という言葉があります。勤務中のランチは節約するくせに、

勤務後の居酒屋ではいくら払ったかわからない状態でも心理的にダメージを受けないというものです。

これは高くてもいいけど、こっちは高いと気になるみたいな感じですね。

この罠にはいまだに多くハマることがあって、結果的に年間を通してみれば

もっと貯められたなという反省しかなくなるのです・・・。

 

例えば服に年間40万ほど使っているんですが、はっきりいっていらないです。

見栄にかかるお金というのは本当に高くつくなぁとつくづく感じています。

あとは未だにソシャゲにかなり課金しているのもどうにかしなければと思っています。

 

とまぁそもそも自分の幸せに本当に必要なのか?というところを削った上で

そのうえで、幸せなことをしていけばコスパ良く暮らせるのではないかと思っています

 

ちなみに、以前の僕の幸福論では絶対的幸福論と相対的幸福論という、

本来自分が好きで幸せを感じることと、他人と比較した上で幸せを感じるものという二つの幸福観があるというように定義づけていました。

この考えは今でも変わりませんが、当時はこの幸福論は思考の傾向という観点から人間の良い思い込みと悪い思い込みという二分として挙げていたようですが、

 

最近の僕の考えでは、幸福観というのは幸福を感じていればそれで良いというより、

実利や事実に基づいて逆算して幸福であるという認識をするという考え

が重要なのではというものになっているんですが、

当然、あなたは恵まれない人に比べて幸福なんですよと言われても自分の人生にモヤモヤしてる人が納得するのは難しいんですが、

ただ、適切な事実を理解しておくことは今の時代重要なんじゃないかなと思うのです。

この適切な事実の理解というのは少し人間には残酷なものです。

それは人間の感情に反するからです。それでもそれを認める勇気が現代には必要な気がしています。

 

例えば、少し前から話題が上がるようになった持ち家と賃貸どちらが良いのか、

だとか、ブランドものを買うのってどうなの?とか

こういうものって、自分が幸福になる選択をしろと言われたら、それが自分由来の絶対的幸福感でも他人や社会由来の相対的幸福観でもどちらでも

選ばれる選択肢って決まっているような気がするんですけど、

これってでも割と割高だったりするし、後々のデメリットも存在したりするんですよね。

 

ブランド物なんか特にそうです。

僕は昔はブランドものを好んで着てたんですけど、

今の僕からすれば過去の自分がブランドものを着ていようが着ていなかろうが

とてもどうでも良いことなんですね。

同じように、他の雑貨などにも言えます。

未来の自分がそれを必要としていない、というものにかかるコストの多くは

必要のないものなのかもしれません。

 

ということで、刹那的に幸福を感じることだけしていても

それもまた違っている気がするので、そのあたりについてまた整理していけたらと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

並木将央 成熟社会のビジネスシフトを読んで①

成熟社会のビジネスシフトとは、成熟社会とは過去の人々の需要がはっきりとしていた

時代、成長社会と比較して誰もが物的不足を感じず、生活には困らず、

新しいものを欲しがらなくなりされど生活に感情的な不足を抱え得ているが故に、

どこかしらに需要が存在しているのであり、感情から逆算しないと見えてこない

本人すら理解していない透明の需要を企業が見抜く必要があるという新しいマーケティング

成功に要求される社会である。働けば働くほど成長した成長社会とは違って、目指すべき

ポイント(ゴールと書かないのは時代の変化の速度が上がっている現代で停滞という選択肢はない為)

の把握に時間がかかる、また、これは演繹的な方法でしか確立できないものであり、

そもそも需要というものを考える必要があるのかどうかすら疑わしいありふれた情報によって

作られた複雑世界でどのようにこの状況の社会でビジネスしていくか、俯瞰的な歴史推移の観察の元

著者が提案する変化方法である。

 

歴史の推移

 

人口増加➡︎労働者と消費者の増加➡︎1945年戦後➡︎不足不満の蔓延➡︎日本経済復興への舵きり

➡︎朝鮮戦争➡︎モノ=幸せの価値観➡︎高度成長期、核家族化➡︎1968年GDP2位➡︎市場が活発化、高所得化

➡︎知的労働者の台頭➡︎1985年男女雇用機会均等法➡︎教育水準上昇、女性の社会参画

➡︎不足不満の解消➡︎大学の標準化➡︎1991年バブル崩壊➡︎1995年ITによる仕事の高速化

➡︎高学歴化による社会に出る年齢の遅れ、子供育成のコスト増➡︎多様性、晩婚化

➡︎2008年人口減少➡︎2008年不況、リーマンショック➡︎労働者と消費者の減少

➡︎大量生産による供給過多➡︎モノやサービスに溢れる➡︎質がよく安い商品が本格化

➡︎物価下落、新たな付加価値を欲しがる➡︎企業のビジョンが見えず将来が不安に

➡︎自分の生活を守る方向意識が向く➡︎2017年大学生が就職したい企業1位2位公務員

➡︎マインドシェアが重要➡︎シンプルライフ、エコノミー、シェアリング

➡︎長寿による「消費=幸せ」の崩壊➡︎誰もモノやサービスに困らない時代

➡︎実存的虚無感と関係性重視➡︎ローカルコミュニティの発達➡︎所属、承認、自己実現欲求のループ

➡︎企業における感情マネジメント➡︎パラレルキャリアの発達➡︎働くことが趣味化する

➡︎コミュニティ同士の共存共栄と個人の多様化、個別化

➡︎統合と分離の矛盾統合による実存的虚無感の解消

 

上記は著者の提唱する成長社会から成熟社会へのビジネスシフトスキーマであるが、

歴史から辿っていくと史実から課題へ突入していくことがわかる。

特に以前とは価値観が大きく変わり、ほぼ全ての人間がおおよそマズローの6段階欲求で言う

1次の生存欲求が満たされた状態で、高次の段階である安全欲求、社会(所属)欲求、承認欲求、自己実現欲求が

多様化し、またコミュニティの多様化から人間関係の中で価値観の相違を年齢に関わらず、

重視するようになり、結果、1次の生存欲求以降の欲求階層に変化が生じたと見ていい。

自己実現欲求➡︎承認欲求➡︎社会(所属)欲求➡︎安全欲求 昨今本著の様な暗雲に光明を差し入れる類の

哲学者もとい研究者の示す情報需要が増加している。それもそのはず、昨今の生きづらい人生の原因とは

多様性からくる価値観の相違であり、価値観を共有できる他者と出会う機会がないからである。

つまり、価値観は人それぞれなのではなく、自分の価値観を価値とし、他者にそれを認めさせ、

(その手段として自己啓発本などで自分に価値があるということを事前に立証しようとする。)

その同等の価値観を持った人間の中で社会(所属)欲求を満たし、それを持って社会性不安、つまり

安全欲求を満たすのである。人との繋がりが自分=他人ではなく、自分の価値観=他人の価値観に

重きが変わってきている。

 

Neria社会論

 

既に上記には本著に対する恣意的な解釈もとい、私自身の意見が見受けられるが、

Neria社会論としては、やはりこの根底に国の先行きの見えない長期的な不安に対して

短期的な不安解消が求められ、その手段が多岐に渡っているが故に、人は

不安解消と人間関係において多くの変化を求められているという社会問題に

フォーカスを当てなければならない。本来本著では変化した社会情勢を鳥瞰的に捉えた上で

どの様なニーズを見出しビジネス展開をしていくべきかについて触れているが、

実際この消費者が需要を理解していないのは1つの社会問題に感じる。

つまり、脳を使うことを諦めて行き当たりばったりで人生を歩んでいく。

また、これに伴い複雑社会のどこかへ消えたシンプルな価値観すら失い、

目的なき人生を歩むこととなる。つまり、これは環境依存型の人生であり、

果たしてこの人に少しでも考える頭があれば回避できた「望まないこと」に対して

何の対処も施すことができなくなってしまうのである。

元より自分の人生に命題を見出すほど大それた自己啓発などは必要ないが、

欲しいものも分からず、必要なことすらわからず、やりたいことも、目指すべき場所も

何もない無宗派の僧のようになってしまえば、後は運命に身を任せるだけであり、

この人が本来確固として持っていたはずの「望まないこと」に対しても鈍感になってしまう。

我々は果たしてこれを人と呼び、その様な人間になりたいのだろうか。

 

問いを投げかけたところで、話は変わるが現実、問題の根底には個人が価値観を見失っている

という現代病が蔓延していることは何となく分かるが、それでも幸福な人間と

不幸な人間は明確に分かれている。では、この違いは何なのか。

これに言及するとNeria幸福論の問題になるので、ここでは端的に社会論的に必要な

不幸なものについてだけ幸福論から抜粋して論じようと思う。

つまり、現代の人々が抱える不幸とは個人における絶対的な需要、これを「絶対的幸福感」と呼ぶが、

これが標準化されたことによって、他者から抜きん出る人間の本能である成長意識は

他者との単純な比較による「相対的幸福感」によって生じているのである。

つまり、不幸を生み出す原因は他者との比較である。個人に何が足りないか、何が欲しいかではなく、

他者にどこが劣っているかで如何に自分の日々の鬱憤や原因、責任の所在を不幸に転換するかどうか必死に

探しているのである。だが、当然の如くプライベートで好きなことをしている時間にわざわざ

リソースを奪い合っているわけでもない他者と比較することに何の意味もない。

(幸福な人間は自己の需要を理解し、それを満たす為の活動に情熱を捧げている。幸福度とは熱量である。)

従って、Neria幸福論ではこの「相対的幸福感」のことをリソースを無駄にする幻想と一蹴している。

ただし、当然の如く他人から抜きん出ることが需要であればそこにビジネスチャンスが見出せるが、

堀江貴文曰くここでのイノベーター、ファーストペンギンになるのは非常に難しい。

何故かと言えば日本人は自己の安全の為に他者を犠牲にする功利主義の民族だからである。

他人が試して安全であれば、利益的であれば真似をする、悪く言えばそういう狡猾さを持っている。

が為に、彼は自著の中でイノベーターにセカンドペンギンになれ。と言っている。

つまり、他者の中に需要を見出しても本人がそれに気付いていないのだから、

これに気づかせ納得させることは相当に骨が折れるし、果たしてそんな顧客を相手にビジネスをしたいだろうか。

はっきり言うがこの様な顧客は後々非常に面倒なビジネスパーソンとなる。だからして、

目的もなくソーシャルゲームにこうじたり、Youtubeで動画を見たり、Yahooでニュースを見る人間は

無駄にネガティブな文句が多いのである。そこにある付加価値を素直に認められない。

何故かと言うとそこに自己にとって有益な目的がないから。通常の感覚で言えば、何かしら不平不満があれば

その場からすぐ立ち去るべきであるし、目的があるのならばそれを達成しようとするし、

快適にサービスを活用できる製作者にまず間違いなく感謝し己が利益に変えていくべきだし、

これもなくただ自分が不幸であることの証明に何でもかんでも使えばいいというものではない。

(ただしメディアというのはこの様な目的意識のない人種をターゲットにしている為、

むしろ昨今の不幸社会では特需と言って良いほど需要が生じている。)

本来ビジネスにおいて文句など必要なく、数字が文句の原因を示しているのであれば改善を促し、

それでも対応せず数字に良い変化が起きないのであれば契約を解消すべきだ。

 

さて、ビジネスとプライベートの話が混在して申し訳ないが、

最終的に何が言いたいかというと情報があり触れた複雑社会の中で

良質なシンプルな情報を抜粋する必要があるということである。

これは例えば流行りの本を読むこと。

実は幾つも良質な(と思われる)本を読んでいると同じ出典から引用されているケース

が多く見られることに気づかされる。それこそが現代複雑社会のシンプルな

スタンダードであり、(正しいか間違っているかはさておき)

人々が認識すべき明確な指針であることには間違いない。

私も数多くの名著からその様な情報を抜粋、自己流にブラッシュアップして皆様にお届けしていくが、

一度、複雑になりすぎて当たり前のことすら分からなくなった社会を整理して

シンプルな誰にでも適用できる法則というものを法典としなければならない。

私の目的もそれに他ならないし、現在読み進めている社会契約論を論じた

ルソーも同様のことを述べている。結局なあなあになり曖昧なまま

複雑社会の荒波に揉まれて単純な真実すら見失うよりかは

これだけは忘れてはならない人類のスタンダードを設ける必要がある。

これがNeria○○論の目的であるが、

 

今回本著を学習するにあたっては、誰しもが生きることに物理的に事欠かない成熟社会で

企業目線で顧客のニーズがどこにあるかを模索することを習得することを目的とするので、

顧客に変化が求められている、また、読み進めていないので後にどう述べられるか分からないが、

時代の潮流に乗っていない顧客とはビジネスしないという私の自論も別の機会で考察することとする。