第一回、人生を生きる意味は幸せになるためである についての補足
今回は一つ目の動画の人生を生きる意味は幸せになるためである
についての補足記事になります。
動画時間を気にしなくていいので書けるだけ書きたいですね。
慣れない動画製作でご迷惑をおかけしていることと思います。
僕自身早く慣れていきたいと思っているので温かく見守ってくださればと思います。
さて本題ですが
人生を生きる意味は幸福になるためである。
これはただのその場の意見でもなんでもなくて一応僕の作った
幸福論体系の根幹の話であったりします。
というかまだ何故哲学をしようと至ったかなど
お話できていない部分がありますのでまずそちらを簡単に。
第0回でもちょこっと述べていたんですが要するに哲学とは
現代における諸問題(つまり社会問題であったり個人の悩みであったり)
そういった物に対抗しうる一つの特効薬であり、予防薬であり、
知識、思考をもってして毒を制すことができるからなんです。
目に見えない諸問題、つまり毒が蔓延している現代だからこそ
こういった知識のプラットホーム的なものがあればいいかな、と思い、始めた次第です。
ですが、やはりわかっていたとは言え、再生数が伸びず多くの人に
考えを聞いてもらうことすらできない状態にあり、これが僕の最大の課題です。
自分自身が未熟であると同時にノウハウもなく、あらゆる技術も足りていないと
思い知りましたので、まずはコツコツと続け、自分の能力を磨いていき、
そして、いつか多くの人に見てもらえると信じて、今はその畑を耕していくことに
邁進していこうと思っています。果たしてそれでいいのかはまだ謎ですが。
動画投稿を始めてまた自分自身を見つめなおすいい機会になったと思います。
ニーズにあったものを作れるよう頑張っていきたいです!
と、自分語りはここまでにして、戻ります。
哲学的に様々な問題を解き明かしていくという論はいくつも存在しているのですが、まず幸福論を持ち出させてもらいました。
人間とは生命ありきなので、その生命を支える幸福が最初のトピックとしてはふさわしいかなと思ったのでこうなってるんですが、
このクオリティでは後々作り直しが必要ですね。
人間って自分が生きてる意味なんてわかってないですよね。
むしろ、わかってる人がいたら凄いなと思うんですけど
まぁなんとなく死ぬのがいやだからとか、生きてたいからとか、
やりたいことがある、また、そんなこと考えたこともないという人が多数だとも思います。
一方で自分が生きてる意味なんてあるのか、誰にも必要とされてないんじゃないか、
死にたい、それしか考えられない、なんて人もいると思うんです。
まぁこうした場合、本来は「生きる意味」の答えを求めているわけではないんですけど、一応哲学的にこういう答えが出せますよ。というのが
「幸福」になるため。というものになります。
理由は動画内で説明した通り、「病気、孤独、鬱、貧乏」などの
「不幸」の要素っていうのは人間を"死"に至らしめる要因なんですね。
要因と言うより人間を"死"に至らしめる要素だからこそそれを
「不幸」と呼んでいるのかもしれません。
なので「不幸」の逆である「幸福」はなんだか脳内快楽物質が沸き起こる
刹那的なものでもあるようでありながら恒常的に四葉のクローバーが周囲に
待っているふわふわしたものとも取れるわけですが、要するに
「生」を成り立たせるものであると分かるわけです。
俗に言う"生命力"というのはそういった「幸福」を集めるために
必死になる力なんだと思います。生命力が欠けているのは
「幸福」を集めることを諦めてしまっている状態なんです。
なので、「幸福」の因子である「仲間、金銭、健康、元気」を
悪いものじゃなくていいものとして見て集めていくことが大切です。
ちなみですが「幸福」、「不幸」に「運」の要素って関わるのか
というお話をします。
というか「幸福」「不幸」って言葉単体だとそもそも自分が操れるものじゃない
「運」の話だと思う人も多いと思いますが、
実はNeria幸福論の体系では基本的に「運」の要素は完全排除してるんですね。
つまり、僕の幸福論の体系上では「幸福」と「不幸」には「運」は関係ないというように結論づけてるわけです。
これには反対したい方もいらっしゃると思います。様々な事例をあげてそれはおかしいと反論されてしまうことも重々承知しています。
しかし、何故一番関係ありそうな「運」の要素を排除しているのかというと、
「人間が自分にしてやれることは自分の人生をコントロールすることしかないからです。」
結局物事を理解するときって、自分がそれに対して何ができるかということを学ばなければあんまし意味がなかったりするんですね。
人間ができることは、行動することだけです。そこに思考と反省を絡めていくのが基本的な物事の進行になるんですけど、その行動を起こすというのは自分の能力を以ってして目の前の課題に取り組むということを意味しています。
仮にその段階で自分の能力が足りていなくても人間には課題を解決するための「学習能力」がありますから、失敗と反省と学習を繰り返して自分でなんとかできるようにしていく、ということだけが人間にできることなんです。
「運」の要素には人間は触れることはできません。
「運」の要素を人間がコントロールすることはできません。
まぁこれは「運」ってそもそもなんなのという話になって、
もう既に僕は「運」とは何なのか実態を知っているんですけど、
はっきりいってあまりにもえげつない物なので動画化する予定はないです。
たぶん一生しないと今ここに誓いたいぐらいです。名前を出すだけでもおぞましい。
とにかく「運」が全てを決めるから自分には何もできることはない、
というように、自分が行動しない理由や怠ける理由に「運」という言葉は
便利すぎてしまうので、この考えを用いていると
人間が自分の力で正当に「幸福」を集めていくことをやめてしまうんですよ。
「運」とは一説には人間が認知しえない物事のことを指すので、
自分が一生懸命積み上げた「幸福」を「運」が破壊していった!
なんてこともまぁ勿論起こらないわけではないです。
ですが、その避けられなかった破壊が起きて全部諦めてしまえば、
違う世界線で諦めなかった自分と差がつくのは当然の話です。
再び破壊が起きるかもしれないからと億劫になる気持ちはわかりますが、
また一生懸命集めはじめなければ今の状態が変わることは絶対にないのです。
時に「学習性無気力」という言葉があります。
これはですね、まぁ「運」ではなく然るべき結果が誘発することもありますが、
自分が努力したことに対して結果が伴わなければ、特にそれが「運」による
自分じゃどうしようもないものだとすれば、挑戦、努力する気力がなくなる現代特有の(?)病です。
最近のアニメでは「ゾンビランドSaga」の主人公、源さくらがそんな感じでしたね。
何をしてもうまくいかない、持ってない自分は何をしても意味がない、人に迷惑をかけるだけ、と挑戦することを諦めてしまっていました。
興味深い話なんですけど、これ、マウスの実験でもあるみたいで、
少し距離のある餌をマウスにちらつかせるんですね、マウスはこの餌を
目指して、歩いていくんですけど電気ショックを与えられるんです。
最初は戸惑いながら餌のある方へ向かっていくんですけど、
次第にもう餌を目指すどころかその場に停滞して何もしなくなるそうなんです。
犬などもそうですよね、人間から虐待を受けて保護された犬は餌も食べようとしません。
「学習性無気力」とは生き物に備わった生物本来のあり方なのかもしれません。
しかし、人間は物事に対抗しうる「知恵」を持つ知的生命体の頂点とも言える存在です。
先に言ったように、「哲学」、つまり知識という素材を思考経由で濾した1つの答え、というのはこうした毒に対抗しうる薬になるわけなんですね。
僕が「幸福」になるのに「運」は一切関係がないと断言する理由はここにあります。
つまり、人間は自分のできることしかできないんだから、自分が操作不能なものについて煩わされること自体が馬鹿馬鹿しいということです。自分のできることを続けていくことしかできないんです。「運」なんて何が起こるかわからないから「運」なんです。
確かにその「運」によって発生した「幸福」「不幸」について素直に享受したり、リカバリーを図ったり、要求される判断は変わりますけど、それは発生した後の話で、
「運」の要素によって何かが起きるかもしれないと思って、自分の行動を縛ることは何の意味ももたらなさないですし、多くの場合その判断は空回りします。
ラプラスの悪魔はきっとそんな「運」に怯えたり希望を持っている人間をあざ笑っていることでしょう。
ラプラスの悪魔といえば「ゾンビランドSaga」と同時期にやっていた「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」にも出てましたね。
やはり現代と哲学はとても相関性がありそうですね。
ラプラスの悪魔・・・全ての未来を知りうる人間を超越した存在の例え
とにもかくにも、恐れるにしても「運」ではなく、「運」とは言い難い「必然性」について恐れるべきなんですよね。
例えば「台風がきたから外には出ないようにしよう」だとか、「夜の路地裏を1人で歩かないようにしよう」だとか、その次に「不幸」があれば何が起きるか容易に連想できる「必然性」です。
これは「運」という言葉で片付けるには行動からの結果の「再現性」が高すぎるので、
繰り返していればいつか「不幸」が起こることには「必然性」を感じることです。
なので、こういった「不幸」に直結する「必然性」を持ったことについては警戒はしていくべきです。
ということで、「運」なんか考えてもわからないのだから
(次にどんな「不幸」が起こるか人間でも分かる必然性のある出来事を除いて)
無視して起こってもリカバリーするぐらいの気持ちでいきましょうということです。
もう1度言いますが、人間が自分で「幸福」を掴むには行動するという選択肢しかありません。「運」による「幸福」は刹那的で再現性がないので、いざという時に役に立ちません。
なので、「運」を考えず、自分の手で1つずつ大切に「幸福」を集めていきましょうね。という結論を出しています。
「運」は「幸福」「不幸」には関係はありますが、考えても意味ないどころか
考えると「幸福」を集めることをサボっちゃうので、基本考えない方がいいです、ということです。
とても長くなってしまいましたw
こんなに補足が必要なことをあの数分で終わらせるのは本当に謎ですね。
ただ、やはり自己紹介の動画の編集に3日かかったこともあり、
試験的に色々試していかなければいけないな、ということもあり
あれ以上の長さにするのは無理ですねw
なので、ブログの補足ありきという形で進めていこうと思います。
Youtube liveだとかニコニコ生放送で出来たら動画編集もいらないですし
喋ってるだけでいいんですけど、今やっても絶対虚無に向かって
話し続けることになるので出来ないんですよね・・・・
できる様になって作業量を減らしたいですねw