人生攻略法を考える

哲学を使って人生の選択に最適解を出していきます。

幸福論について〜外部からの幸福操作に思考で対抗する〜

こんにちは。

仕事やプライベートが忙しくあまりブログを書く時間が取れません。

 

ただし、本当に時間がないわけではなく、大人になってから

あらゆる時間をのんびり過ごすようになっているので、相対的に

昔に比べて時間がないように感じているだけですかね。

 

本題前の余談なんですが、

昔の自分に比べて時間の過ぎるスピードが良くも悪くも早くなりました。

 

例えば小学生の頃の授業45分。

とても長かったです。

寝て起きても5分しか経っておらず絶望したものです。

 

中休みの20分

外に出てサッカーをしていました。

 

習い事の1時間。

やるべきことやプラスαを行ってまだなお、

顔見知りの友人達と談笑したり遊び倒す時間が残っていました。

 

さて、現在になります。

私はSE兼プログラマーをしているのですが、

プログラムを作るのが予定の日に、実際にプログラムソースを触るのは

始業の1時間後です。

 

これは明確に1時間を別作業に確保しているわけではなく、

気づけばそんな時間になっているという話です笑

自分以外の従業員を見ていても大体はそんな感じです。

 

子供の時はとてつもなく長かった1時間が今は本当にあっという間です。

子供の頃にすでに今の仕事をしていた方が生産性があったのではないかと

ふと思いました。

 

ある人は問題ないと思いますが、生産性には

「元気」というものはつきものだと深く感じている今日この頃です。

 

元気になる方法もそのうちまとめたいですね。

(僕が一番知りたいですが、、笑)

 

〜外部からの幸福操作に思考で対抗する〜

 

 

さて、本題に入りますが、

前回は「幸福に思考は必要か」というテーマでした。

前回時点での結論では、

 

思考は幸福や不幸の観念を増幅させるものであり、

それによって幸福か不幸かというものを決めることはできない。

 

といったところに落ち着きました。

とはいえ、何も考えてない人ほど人生楽しそうなので、

増幅させるものは不幸の観念だけになるような気もします。

 

夜な夜な考え事をするより、一番は悩みに対して1つの最良と思われる決断をし、

その決断した行動によって起こり得る結果を受け入れ、

とっとと寝てしまうのが最も不幸から遠ざかる方法でしょうから。

 

また、前回のテーマでは

・幸福の要因は与えられた環境によって決定する。

・現代では与えられる刺激が多すぎて対処が困難である。

といった、問題点が浮かびました。

 

今回は、これに対して対抗しうる「思考」はどのようにされれば

適切かどうかを考えていきます。

 

では、まず最も現代人を不幸にしていると思われる要素2点を挙げます。

1)他人からの評価

2)お金

 

もし、幸福の条件が「あるがままの自分」であれば、

この2点は「あるがままの自分」を阻害します。

 

1については簡単なところで言えば、生まれもった「外見」や「才能」。

2については誘惑への節制ですね。

 

例えば1の場合、

もし私たちが他人から評価されたいと感じて、

その欲求のままに素直に行動できたとしたらここに大きな問題は発生しません。

大抵は試みに対するフィードバックがあり、それは評価基準に対して

適切な不足を示してくれるからです。

その場合、私たちはそのフィードバックに対して愚直に従うだけで評価は上がっていきます。

 

ただし、そのような取り組みに対して、特定の解釈が人に不幸をもたらします。

それは、生まれ持った生得的な性質により生涯をかけて埋めようがない差が存在し得るというものです。

もし、自分自身で状況を変えることができない。

望んでいるものは一切手に入らないとなれば人は努力をする理由がなくなってしまいますから。

 

また、人は自分が想定する結果より悪い結果が出た時にそれを一時的に

認めたくない心理が働き拒絶するものですが、そうした時にも

この生得的な理由が用いられることがあるようです。

 

ここで、思考には2種類あることを説明しておきます。

1つは、建設的な思考。

2つ目は、そうでない思考です。

つまり、状況を好転させ得る狙いのある思考と

なんら状況を好転させない現状維持の思考です。

 

この生得的な理由については後者の思考となります。

仮に生まれ持った埋めがたい差が他者との間に存在していたとしても

自身に成長の必要性があるという事実は変わりません。

つまり本来は、1番にはなれないが適度な程度を目指すという妥協が必要となるのですが、

1番になれない=何をしても無駄 というように結論づけてしまうのです。

 

このようなネガティブな思考のことを「反芻(はんすう)」と呼びます。

何をしても無駄だと自分で結論を出しているのにも関わらず、

結局はまだ自分の欲しいものを諦めきれず、毎日同じ問題に同じネガティブな

結論を出して堂々巡りをします。

 

このプロセスは次第に複雑化していき、思考がこんがらがった結果

中々ほどけない厄介な問題へと昇華します。

ただし、厄介さは本人だけの中にあり、第三者視点で見れば

さほど厄介な話ではなく、単純な一言で済んでしまうものばかりです。

そうした他者からの正論の解決を拒む当人はこれにどうしても自分の場合は複雑であり、

他の同様の環境に置かれているような他者とは違うという理由づけ、もとい

解決の先延ばしのための自己正当化をするようになるのですが、

このような非合理的な理屈を正当化させる試みは、その理由すらより複雑である

必要性が生じてきますので、より問題は複雑化していき、もしそれが当人の

事情によるものとされれば、当人はその事情すら正当化しなければならないので、

より一般的な感覚とはかけ離れた問題を抱えることになります。

 

例えば職場で嫌なことがあって仕事を辞めた時に、この段階ではまだ

多くの人間にとって共感される事象であるにも関わらず、

自分は働くことができないという理由をつけてしまった場合、

本来働ける状況にあるにも関わらず労働を放棄せざるをえない状況を演じなくては

ならなくなり、これは当人にとっても良くないことで、かつ当人自身も

心当たりがあるために、自己正当化するために労働は悪だという

極端で一般的な感覚からかけ離れた思想を持つようになってしまいます。

 

こうなってしまえば、今はかろうじて生活ができている状態であったとしても、

その状況が破綻したときにようやく遅すぎる後悔をすることとなります。

これは当然のことながら、全くもって当人にとって良い結果ではなく、

そこに導く思考は間違っていた、ということになります。

 

では、ここに思考を介入させてみましょう。

もちろん、不幸な状態にならないための思考ですからこれは建設的な思考にあたります。

 

「職場で嫌なことがあった仕事を辞めたい」

嫌なこと

・嫌なやつに嫌なことをされた

・給料が安い

・時間外労働が多い

 

解決法

・嫌なやつに嫌なことをされた

→人間関係について勉強をする、人付き合いが少ない職場を選択する。

・給料が安い

→生活コストを減らす、キャリアアップ転職をする。

・時間外労働が多い

→転職をする。

 

つまり、単純な解決方法は「転職をする」です。

この結論を導き出すことは誰でもできますし、時間もかからず容易です。

 

では、すぐに終わることに何故問題が発生してしまうのでしょうか。

 

それは、「転職」には「努力」と「面倒」が伴うからです。

もっと言えばそれを受け入れることができないからです。

・努力はしたくない

・面倒なことはしたくない

・会社は辞めたい

 

となると、会社を続ける選択肢も転職をする選択肢もなくなります。

では、そうなると次の最善の選択肢はどうなるでしょう。

 

・恥を忍んでヒモになる。

社会保障で暮らしていく。

 

確かにこれなら「努力」しなくてもいいですし、「面倒」も転職そのものや

転職したその後に比べたら遥かに少ない量で済みます。

 

しかし、一度この立場になった時に、以前自分がいた場所まで戻るのには

当時に比べてとてつもない「努力量」と「面倒さ」が伴います。

以前の努力量と面倒さに辟易としていた当人には、その壁はより高く感じるでしょう。

そこまで加味した場合、もはや「生涯普通の暮らしには戻らないという覚悟」が必要になります。

 

また、生活が保障されなくなった場合、もはや生きていくことは困難になります。

 

ですが、今の自分がよければ未来の自分が困っても構わないというのは

非建設的な思考の果てに発生する、選択のようで選択ではない決定です。

 

これを「現実逃避」と呼びます。

 

少しまとめます。

最良の答えは最初に出ている。

・そこから「逃避」することで次の選択肢が生まれる。

・「逃避」の果ては生存の困難。

 

この記事の最初にも書いたのですが、

何も考えてない人ほど幸せそうであるというのは得てして間違っていないようです。

 

思考によって最良の答えは最初に出るのです。

 

それに何かしらの理由をつけて、消しゴムで消して書き直すのは自分です。

 

ですが、ここで終わりではありません。

「転職」にしても、どこへ転職するか考えなければなりません。

ここで深い思考をすることができれば、より良い結果は得られるはずです。

 

ということで、例のように職場で不幸を与えられた時に、

このような思考は自分のためになりそうですね。

 

 

 

 

 

では、話を元に戻しまして、

これを「他人からの評価」、「お金」に当てはめたいと思います。

 

実は「転職の例」とはこの2つは少し意味合いが変わります。

「転職の例」は強制的に不幸な環境を与えられたケースですが、

「他人からの評価」、「お金」の場合、その環境が不幸であるかどうかは

人によって全く尺度が違います。

 

例えば「お金」で言えば

年収450万以下から不幸だと感じる人もいれば、

正規雇用から不幸だと感じる人もいます。

また、職があるだけまだマシだと、下の基準設定を見ればキリがありません。

 

つまり、同じ立ち位置にいる人でも、幸福な人もいれば不幸な人もいます。

厳密に言えば、当人がそう感じているということになります。

 

これが、今回のテーマの「幸福操作」に繋がってきます。

例えば年収450万円の人が自分は平均だからいいだろうと思っていても、

それ以上の人達に囲まれ、かつ、生活レベルを比較され見下されるようなことがあれば、

この価値観は変わらざるを得ません。

これをここでは便宜的に「幸福操作」と呼んでいます。

 

さて、小学生のなりたい職業の上位がどうやら

Youtuberだとかプロゲーマーだとか、投資家なんてのもありましたかね、

いわゆるお金持ちに該当する職業となっているようですが、

このような価値観に晒されていると、いざ自分が就職した時の初任給との差で

自分はお金がないという認識に陥ってしまいます。

しかし、有名人と同じものを買いたいので支出は大きくなりがちです。

 

また、「外見」についても同じです。加工や整形、また、元々容姿のいい有名人が

こぞってメディアに基準を作る結果、

標準的な外見をした人は自分を醜いと錯覚してしまいます。

 

ブランド品やおしゃれについても同じです。

 

つまり、本来であれば上位数%の値が標準値であると錯覚してしまえば、

多くの人間が不幸であるという認識に陥ってしまうのです。

 

さて、ようやく本題ですが、

この操作された「幸福観」に思考で対抗することはできるのでしょうか。

 

結論から言えば可能です。

 

最も効果的なのは、「気にしないこと

つまり、「他者と比較しないこと」ですが、

自分より上がいるということを知らなかった時はいいですが、

一度気にし始めてしまうともう「気にしないという状態」に戻るのは難しいです。

 

そのため、気になってしまった場合は、上位に入る努力をすれば良いのです。

 

とはいえ、先程の「転職の例」と同じで、努力は面倒です。

「反芻」や「逃避」を続けた方が楽な感じがしてしまいます。

 

しかし、思考は良い行動への足掛かりというように捉えれば、

これもまたいい機会のような気がしますね。

 

気にならない人はとことん気にならないようですから、

気になっている方はステップアップするチャンスと捉えた方が良さそうです。

 

 

 

ということで、今回のまとめです。

・思考で「幸福操作」に対抗することは、努力をすることで可能になる。

・思考から最良の解決法は「最初に」導き出される。

 更なる思考はその中でより良い方法へのアプローチである。

・努力を放棄するのは「逃避」であり、不幸になる。

 

 

思考とは改善点を見つけて、人生の過ちについて補修をかけていくものなのかもしれませんね。