人生攻略法を考える

哲学を使って人生の選択に最適解を出していきます。

幸福論について

前回は久しぶりのブログだったので、リハビリ兼ねて

駆け足になってしまいました。

仕事が終わって寝るまで少し時間あるな!と思って書き始めたのですが、

長文長時間の癖は抜けていなかったようです笑

 

 

さて、今回も幸福論について考えていきます。

 

今回はテーマを決めます。

 

「幸福に思考は介在するか」

 

このテーマは少し厄介な表現だと思います。

噛み砕いて言えば、思考をしないこととすることどちらの方が

幸福か、ということです。

このテーマを解き明かしていくためにはより幸福について深掘りした理解が

必要になってくると思うので、今回の試みでは綺麗な答えにはならないはずです。

体裁を整えて徐々に答えに近づいていきたいですね。

 

では、考えてみましょう。

思考をするAは人間とします。

思考をしないBはアリとします。

 

この場合アリの気持ちを理解しなければなりませんね。

それは難しいので、見てわかる判断材料で判断します。

 

人間は自殺をします。

アリは自殺をしません。

 

よってアリは人間よりも幸福です。

この答えを出してしまうと、人間以外に生まれれば幸福ということになります。

 

では、自殺をするAを人間とし、

自殺をしないBを家畜とします。

 

ここで、アリと家畜の違いが明確に分かります。

屠殺される家畜が幸福であるとは家畜の気持ちになればいえませんね。

違いがあるとすればここです。

 

アリの気持ちになることは難しいですが、

家畜の気持ちになることは容易です。

 

理由は家畜には感情があるからです。

 

つまり、幸福かどうか判断するには「感情」が大きく関わってきそうです。

 

では家畜ではなく、遊び回るペットに変えましょう。

ペットが遊び回る場合、彼らはご機嫌ですから「幸福」と言えるでしょう。

 

家畜のような扱いを受ける動物は「不幸」とされます。

ですが、ペットのような扱いを受ける動物は「幸福」とされます。

 

さて、ここいらで整理ができてきたので、一旦話を人間に戻しましょう。

 

人間の幸福には「感情」が大きく関わってきます。

良い感情であれば「幸福」で、悪い感情であれば「不幸」です。

 

ここに思考が介在しなければ、

つまり、与えられた環境によって「幸福」か「不幸」か決まることになります。

 

ただし、もし思考を介在させるとするならば環境に決められた幸福感を

2種類の方法で変化を起こすことができます。

 

1:その環境から違う環境に移る。

2:自分を幸福、もしくは不幸だと思い込む。

 

この2種類の方法は、幸福であっても不幸であっても取り得る手法で

互いから互いの行き来が可能です。

 

そのため、思考を介在させることでは幸福か不幸どちらになるかは定めがつかないことになります。

 

最初に喩えに出した不幸の極地、自殺ですが、これは負の思考の果てに

発生するものです。

 

もし思考が介在しない生物であれば自殺という極端な結論に辿り着かないでしょう。屠殺される動物は屠殺されるその日まで基本的には穏やかな日々を過ごすはずです。

 

ですが、もし人間が同じ環境にいたとしたら仲間が1人ずつ減っていくことに

違和感を覚えて、いずれは自分が屠殺される事実に気づき、恐怖に苛まれる日々を

過ごしていくことになります。

 

人間の知能からくるこの負の感情もとい思考は、この局面から考えるに

窮地から脱するための脳の指令であることがわかります。

それが可能かどうかに関わらず、少なくとも脱走をしたいという気持ちに

駆られることは間違いありません。

 

ですが、このような自己の生存を脅かされるような状況のストレス化において

人は不幸であり続けます。

その極地が自殺であるならば、これは人間の本能の誤作動という他ありません。

 

現代ではそのように人間の本能を誤作動させるきっかけが

ありふれているということになります。

 

これは不幸に関する事柄だけでなく、幸福もまた同じです。

ギャンブルなどは脳の報酬系回路を刺激して、損をしているのに幸福を錯覚させます。

 

つまり、不幸な人が世に溢れ、また、不思議と幸福な人が多いのも

人が人へ与える環境の結果に他ならないということです。

ですが、それらの例を考えるに、どうやら思考はあまり介在し得ないようです。

あったとしてもそれらの幸福や不幸の蜜を啜る自己正当化のために思考は

本来あるべき役割を全うできていない状態と思われます。

 

 

さて、今日はここまでとしておきます。

次回というかできれば明日ですかね、

不特定多数の人間が不特定多数の人間の幸福、不幸を操作している中で、

思考をもってその状況を逆転できるかについて考えてみたいと思います。