幸福論について
以前、幸福論について考えたことがあります。
3年前のことでしょうか。
その時に僕は人が人生を生きる意味は幸福になるためであると言っていたようですが、
少し考え方が変わったので記述しておきます。
人間が生まれてくる理由は、人間の繁殖というシステムに基づいた無機質的なものであるという事実が存在します。
人は幸福になるために生まれてくるのだ、という以前の考えは後付けの恣意的な理由です。
おそらく、この論は人間が生きる上では目的が存在するはずで、その目的はポジティブなものであるべきだという希望論のようなものだと思いますが、
この幸せの希求というのは非常に難しい問題であるために、あまり目的として固執するような概念ではないように感じている今日この頃です。
例えば、幸せを手に入れるために僕らが何をすべきかという以前の考え方からすれば、
自分が美味しいと思うものを食べよう。というのが1つの答えであったと思いますが、
かと言ってはたして本当に美味しいものを食べ続けていいのかという疑問があったりします。
2ちゃんねる創設者のひろゆきさんは、「生活レベルをあげるな」ということを言っています。これはつまり、いい食べ物やいい洋服を日頃から好んで購入していると、
幸せを感じる基準がそのレベル以上になってしまい、幸せを購入する単価が上がってしまうというものです。これを心理学では「限界効用の逓減」というのですが、
結局いいものを買ったところで一時的に幸福になったような錯覚に陥るけど、長期的に見れば不幸になりやすい状態になっているので、生活レベルをあげるのはよくないよねという結論がある程度正しいのではないかという話です。
僕もこの意見には賛同で、僕にとって一番幸せな時期だったのは、小学校、中学校の頃友人とゲームに没頭していた時だったなぁということと、
人生で食べた中で一番美味しかった食べ物は、3日間の断食後に食べた100円のクリームパンだったなぁということから
いいものを買えば暮らしが良くなるというのは割と違ってるんじゃないかなと思っているところがあるんですね。
ちなみにこの美味しいクリームパンを再現するために最近、朝と昼を抜いて
3時ごろにクリームパンを買って食べてみたんですが、やはりとても美味しかったです。
話を戻しますが、特にこの2つはお金がかからないんですね。
最近貯金に興味を持ち始めたんですが、人間突き詰めるとどこまで支出を減らせるのかというちょっとした限界に挑戦する日を設けています。
働き始めの頃は「お金がある=使える」と思って欲しいものはすぐに買っていたし、
それが自分が納得できる生き方だと思っていたので当たり前だと思っていたのですが、
ふと思えば自分が一番楽しかった時期はお金なんか子供のお小遣いほんの一握り程度だったことを思い出したのです。
100円でポテトチップスを買っていた頃から、
美味しいとは言え大好きなビーフジャーキーを買うようになって、支出が4倍ほどになっているんですね。
当然、収入が違うわけですからそういう暮らしをしていても何ら問題ないわけですが、
一説にはこれは必要のない支出であるという考え方があるのも事実です。
クリームパンが美味しいならクリームパンを買えばいいということですね。
ただ不思議とものを買う前はこれじゃないと自分は納得できないと思ってしまうもので、ここの頑固な自分をどう説得するかが鍵になるわけですが、
Aプランを望んだ自分に無理くりBプランを適用しても、結局1日たてば
どうでも良くなってしまうので、ここを何とか乗り越えて無駄な支出を減らしています。
新入社員だった頃に1年で100万円貯めようと目標を立てていたんですが、
この時先輩社員に100万なんか貯まるわけがないというように言われて、
実際に60万ほどしか貯められなくて、貯金って難しいなと思っていたんですが、
今は割と散財していてもかなり貯金できるようになって、当時自分は何に苦労していたんだと思っています。
ちなみに参考までになんですが、
僕の家にものは増えてないし、本当に必要なものしか買っていません。
食べ物や飲み物も安いものを選んでいます。
あとは遊びではものすごく散財はしています。
心理学では「心理会計」という言葉があります。勤務中のランチは節約するくせに、
勤務後の居酒屋ではいくら払ったかわからない状態でも心理的にダメージを受けないというものです。
これは高くてもいいけど、こっちは高いと気になるみたいな感じですね。
この罠にはいまだに多くハマることがあって、結果的に年間を通してみれば
もっと貯められたなという反省しかなくなるのです・・・。
例えば服に年間40万ほど使っているんですが、はっきりいっていらないです。
見栄にかかるお金というのは本当に高くつくなぁとつくづく感じています。
あとは未だにソシャゲにかなり課金しているのもどうにかしなければと思っています。
とまぁそもそも自分の幸せに本当に必要なのか?というところを削った上で
そのうえで、幸せなことをしていけばコスパ良く暮らせるのではないかと思っています
ちなみに、以前の僕の幸福論では絶対的幸福論と相対的幸福論という、
本来自分が好きで幸せを感じることと、他人と比較した上で幸せを感じるものという二つの幸福観があるというように定義づけていました。
この考えは今でも変わりませんが、当時はこの幸福論は思考の傾向という観点から人間の良い思い込みと悪い思い込みという二分として挙げていたようですが、
最近の僕の考えでは、幸福観というのは幸福を感じていればそれで良いというより、
実利や事実に基づいて逆算して幸福であるという認識をするという考え
が重要なのではというものになっているんですが、
当然、あなたは恵まれない人に比べて幸福なんですよと言われても自分の人生にモヤモヤしてる人が納得するのは難しいんですが、
ただ、適切な事実を理解しておくことは今の時代重要なんじゃないかなと思うのです。
この適切な事実の理解というのは少し人間には残酷なものです。
それは人間の感情に反するからです。それでもそれを認める勇気が現代には必要な気がしています。
例えば、少し前から話題が上がるようになった持ち家と賃貸どちらが良いのか、
だとか、ブランドものを買うのってどうなの?とか
こういうものって、自分が幸福になる選択をしろと言われたら、それが自分由来の絶対的幸福感でも他人や社会由来の相対的幸福観でもどちらでも
選ばれる選択肢って決まっているような気がするんですけど、
これってでも割と割高だったりするし、後々のデメリットも存在したりするんですよね。
ブランド物なんか特にそうです。
僕は昔はブランドものを好んで着てたんですけど、
今の僕からすれば過去の自分がブランドものを着ていようが着ていなかろうが
とてもどうでも良いことなんですね。
同じように、他の雑貨などにも言えます。
未来の自分がそれを必要としていない、というものにかかるコストの多くは
必要のないものなのかもしれません。
ということで、刹那的に幸福を感じることだけしていても
それもまた違っている気がするので、そのあたりについてまた整理していけたらと思います。