人生攻略法を考える

哲学を使って人生の選択に最適解を出していきます。

社会契約論を読んで②

第二章 家族という結びつき

 

全ての社会のうちで最も古い社会は家族であり、これだけが自然である。

ところで子供達が父親との絆を維持するのは、生存する為に父親が必要な間だけである。

父親の保護が不要となれば、この自然の絆は解消される。

子供達は父親に服従する義務を解かれ、父親は子供達を世話する義務を解かれる。

こうして父親も子供達も独立した存在に戻るのである。

もしその後でも親子の絆が保たれるとするならば、それは自然な結びつきによるものではない。

両者が結びつきを望んだが故に維持される合意なのである。

そもそも親子ともに自由な存在であり、この自由は人間の本性によって生まれたものである。

人間の社会の最初の掟は、自らの生存のために努力することであ理、最初の配慮は自己に対する

配慮である。そして理性を行使できる年齢になれば、誰もが自分の生存にふさわしい手段について、

自らを判断するようになる。こうして人間は自分の主人となるのである。

 

このように家族というものはいわば、政治社会の最初のモデルである。(最小単位の縦社会。横社会は友人)

支配者は父の似像であり、人民は子供の似像である。誰もが平等で自由な存在として生まれたのであり、

自らの利益に

 

Neria社会論

社会論における運命論だが、

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」この世界均衡仮説において

誰もが平等な存在であるとここでルソーは述べているが、実際は大きく異なる。

人間の自由を決めるのは、「遺伝」と「環境」と「運命」だからである。

上記条件から不自由に生まれる者もあれば、自由に生まれる者もある。

概してルソーは後の章にて奴隷は奴隷として生まれ、君主は君主として生まれると述べている。

論としてはこちらが正しい。自由な存在というのは他者の持つ自由(特にこの自由幅を

人生のうちにリソースを用いて膨らませたものを既得権益と呼ぶが)に常に脅かされるものであり、

自由には強弱が存在し、自身が持って生まれた自由の強弱によっては他者を生まれながらに不自由に

することも可能だし、逆に他者の自由によって不自由に生まれることも可能であるということである。

人間の生存目的を自己の保存と仮定するのであれば(子孫や情報を後世に残し伝達保存する。)

手段はどうであれ自由がなければ他者の保存に使われるのみであるからして、

現在に与えられている自由のリソースでいついかなる時も他者にこれを侵略されないように

拡張しておく必要がある。これが人間が自己の保存のために日常的に行わなければならない

「生きる」という義務である。(橘玲:金融資本、人的資本、社会資本の拡張)

 

マキャベリ 君主論を読んで⑤

様々な差異のある地域に移り住んだ君主は、さらに、

近隣の弱小勢力群の庇護者となり盟主となって、その地域の強大な勢力を

弱めるように努め、例え予測できない変事が起こっても、自分と同じくらい強大な

外国勢力がそこへ入り込むことのないように警戒しなければならない。

そしてそういう強大な外国勢力が、その地域で身の程知らぬ野心や恐怖心から

不満を抱く者達の手によって招き入れられることは、常に生ずるであろう。

すでにその例はアイトリア人がローマ人をギリシアに導き入れた時に見られた。

そして、ローマ人が占有した地域では他のどこであっても、それぞれの地域の者達に

導き入れられたのである。そして事態の推移は次の如くになる。すなわち、

ある強大な外国勢力が1つの地域に侵入するや、そこに割拠する弱小勢力軍は、

それまで自分たちの頭上に権力を振るってきた者への妬みと憎しみに駆られて、彼の側へ帰順してくる。

従って、これら弱小勢力群に関する限り、彼としては味方に引きつけるのに何の苦労もいらない。

何故ならば、彼らは皆すぐに彼が新たにその地に獲得した政体と一体に化したがるからだ。

ただ、彼らの勢力や権力があまりに大きくならないようにだけ、考慮しなければならない。

そうすれば彼は自己の勢力と彼らの援助とを併せて、強大な勢力さえたやすく弱体化させ、この

地域における全面的な支配者になれる。

そしてこのような動向を巧みに見抜けないものは、自分が獲得した支配地をたちまちに失ってしまう。

また、例え保持していても、その間に無数の困難と煩わしさを抱え込むことにになる。

 

ローマ人は、攻略した地域において、このような規則を正しく守った。すなわち

民兵を送り込み、弱小勢力群を手懐けながらも彼らの権力を増大させず、強大な

勢力を弱体化させ、強大な外国勢力に付け入る余地を与えなかった。

その例としてわずかにギリシア地域を挙げるだけで私には十分である。

すなわちアカイア人やアイトリア人は彼らローマ人によって手懐けられ、

マケドニア王国は打ち負かされ、アンティオーコスは追い払われ、またアカイア人やアイトリア人の

功績であるのにも関わらず、彼らの勢力を拡大させるような真似は許さなかった。

さらにフィリッポス王が甘言を弄して近寄ってきても彼を屈服させずには味方へ引き入れなかったし、

アンティオーコスの勢力がいかに強大であれ、その地域に彼が何らかの領土を保有する事を

ローマ人は許さなかった。それゆえローマ人はこれらの事態の中で全ての賢明な君主が成すべき

事を成したのであった。すなわち賢明な君主であれば、単に当面の騒乱に

対してだけでなく、将来にも備えて、全力を挙げて対策を立てねばならない。

何故ならば、早くからこれを予見するならば、容易に治すことができるから。

しかし、あなたの目の前まで近づいてくるのを待てば、薬は間に合わない。

何故ならば、病が癒し難いものになってしまっているから。そして、この場合には、

あたかも肺を病む身体に関して医者の言うようなことが起こる。

すなわち病気の初期においての治療は易しく発見は難しい。

だが時が進むにつれて、初期の発見が遅れて治療も施さなかったがために、

症状の発見は易しくなるが治療は難しくなる。

それと同じような事態が政体に関しても起こる。すなわち、その政体のうちに

生まれつつある病を早くから発見する時には、ーただしこれは思慮深い人物のみに許されることであるがー

速やかに治癒させられるから。だが、その症状を発見しなかったが為に、誰の目にも

それだとわかるほど事態を放置してしまった時には、もはや手の施しようがない。

それ故にローマ人は、早くから不都合を見つけると、常に治療を施した。

そして戦争を避けようとして事態をそのままに放置した例はなかった。

何故ならば、戦争が避けられないものであり、先送りすれば相手に利するだけである事を知っていたから。

それに故に彼らは、フィリッポスを相手に、またアンティオーコスを相手に、ギリシアで戦争を起こしたのであり、

それはイタリアで敵と戦わない為であった。その時に、両次の戦争を避けようと思えば、そうすることも

できただろう。が、彼らはそれを望まなかった。

また、私たちの時代の賢者達が日々口にする、時の流れの恵みを持つというやり方を好まずに、

むしろ潔く自分たちの力量と思慮に身を委ねる事をよしとした。

何故ならば、時の流れはあらゆるものを前へ追い立ててゆき、善と同様に悪を、そして悪と

同様に善を、流れとともに運び出してゆくから。

 

 

Neria社会論

 

私はこれからもこの文言を述べ続けざるを得ないだろうが、

時として世界の名著を読み思慮するたびに、我々の住む時代、またこの地域において

果たしてこの歴史上の正しいとされた道は同様に正しく適用されるのか、という疑問を持て余す。

決してそれが、歴史を省みない決定的な理由にはならないだろうが、我々は現在かのイタリアの

君主における正道を辿る術を持ち合わせてはいない。

何故ならば日本は敗戦国であり、アメリカの庇護にあるという名目の元、

前社会契約論におけるNeria社会論、自己保存の為の拡張(=既得権益)を許されていないからある。

よって、現世において日本が現在の諸外国のみならず、歴史上の君主の正道を辿ることは

前提からして不可能であるということである。

もし我々が日本という国を民主制という国民1人1人の代弁者たる総理大臣という人格の元、

自己保存を図ろうとすればこれは容易に諸外国に阻害されるであろうし、あろうことか、

GHQの望んだ戦争忌避の概念が標準化された味方にすら阻害をされるという始末である。

無論、私の意見としては歴史を省みてもいつの世も戦争は起きるものであり、

これが世界の形態を現在の形まで変化させてきた。未来への変化とは常に戦争が招くものであり、

またこれは防ぎようのないものである。その上で勝者として生まれるか、敗者として生まれるか、

これが現在では出生段階で選ぶことができない。その為自国、こと日本に残る意思を持てば、

無論戦争の敗者になることは必至であるし、日本を出て勝者の国に移ればこの心配はなくなる。

そういった意味では、戦争の勝者、または敗者になるかの選択が可能である分、日本がまだ

裁量のある国家であることは否めないが、多くの国民の意見としては恐らく日本保存、自己の無変化、

また、戦争の忌避を人生の前提として据え置きたいところだろう。

だが、昨今の世界情勢を日本を中心に考えてみよう。戦争が衝突であるならば、

互いの感触を確かめ合う摩擦のようなものが政治であり、この観点で他国との関係を見てみれば

これはもはや一目瞭然であるが、まず、権威については度外視され眼中にない。

そして地理戦略として侵略されている。そしてその侵略は尽く成功に帰結している。

無論、武器を持たぬものに多勢に無勢、力で挑めばこの勝敗を憂慮する侵略者などいるはずもない。

精々侵略の際に考慮する余地があるとすれば、侵略を他国に宣言しているという見解を表明する

タイミングに過ぎない。と、日本という国はいつでも他国の君主からしてみれば破壊の容易い

戦争の窓口でしかないのだ。もしこれを転じようとするならば、アメリカの協力は必至であるが、

アメリカは日本の保存に興味など持っていない為、決して味方にはならないだろう。

詰まるところ、我々日本人がマキャベリの記述した歴史書に学ぶことがあるとするならば、

極めて小さな社会の中でのみこれを活かすことができるということだ。

長くなったが、本来であればこれは第一編第一章の際に申し上げるべきことであった。

それを謝罪した上で、小さな社会の小さな君主についてこれを社会学的観点から考えてみようと思う。

 

君主が既得権の拡張を行う際に守らなければならない事項というものを

マキャベリはイタリアからギリシャへの侵略を例に挙げた。

同様にこれを会社から会社へ、組織から組織へ、人から人へ適用するのであれば、

一体どのようになるのだろうか。

①奴隷に害を成さない家系であれば君主の継承後も維持は容易い。

②奴隷が君主と同じ価値観を持っていれば、前君主の血筋を無力化し、規則を変えなければ良い。

③価値観が違えば、君主自ら監視を行う。

④支配地の権力者に恐怖政治を行い、この部隊を掌握すること。

⑤さもなければ更迭してしまうこと。

⑥君主は自分と最も関係性の薄い反抗的な奴隷に気をつけるべきである。

⑦君主は異常を見つけたらこれに対していち早く対応すべきであり、

 また、それに全力を注がなければならない。

⑧これら全てを行うこと。時の流れに身を任せれば善を失うことになるから。

 

この8つの項目を羅列させるとまさしくワンマン組織がイメージされるが、

マキャベリ君主論において共和政についての言及を避け、あくまでも

君主政のみについて触れているので、今回はここを深掘りすべく、

横社会(友人、恋人、家族)については考慮しないこととする。

 

つまり、上文でも挙げた通り君主政というのは現代でいう縦社会の

ワンマン組織を上げるのであり、またこの必要性については、

ケースバイケースで、ある組織が最も生産性、効率を発揮するには

横社会よりも縦社会であった時であった場合であり、これは環境、

つまり組織を形作る人材や、また組織を取り巻くステークホルダーの存在によって

決まるものである為、君主政が適すか共和政が適すかという議論は

実例に沿わない限り困難を極める為、これにもここでは言及しないこととする。

 

つまりワンマン組織がうまくいく為に、TOPである君主が何をすべきか

ということが君主論から学びうることであり、我々はそれを求めてこの

史書を読み進めなければならない。また、共和政、つまり組織を一個人の

視点から捉えたルソーの社会契約論を同時に読み進めることにより

この2つの統治法の排他的な相違点に気づくことができ、組織における

リーダー、構成員、各観点から見た最良の組織形態を見出すことができ、

かつ、そこで最良の選択を行なっていけるだろうが、それはまた別の機会とする。

 

話を元に戻そう。

①奴隷に害を成さない家系であれば君主の継承後も維持は容易い。

②奴隷が君主と同じ価値観を持っていれば、前君主の血筋を無力化し、規則を変えなければ良い。

③価値観が違えば、君主自ら監視を行う。

④支配地の権力者に恐怖政治を行い、この部隊を掌握すること。

⑤さもなければ更迭してしまうこと。

⑥君主は自分と最も関係性の薄い反抗的な奴隷に気をつけるべきである。

⑦君主は異常を見つけたらこれに対していち早く対応すべきであり、

 また、それに全力を注がなければならない。

⑧これら全てを行うこと。時の流れに身を任せれば善を失うことになるから。

 

これらの8つ項目を実際に組織の中でありうる事例に変えて見ていこうと思う。

 

天皇制である。また名が知れた会社もこれに当たる。

内部的に見れば、順当な役職、役割の継承である。つまり、客観的に次は誰が

特定の役職、役割に継承するか分かった状態で引き継がれることである。

 

②  ①で着任した新しい組織のリーダーがその他の構成員に理解があれば、

 ただ構成員にとって利益のある伝統を絶やさず緩やかな変化を起こすだけで良い。

 

③ 反抗的な他者を従わせるのは力であり、リーダーの権威によって反乱分子の

 出現、成長を食い止めることができる。(権威の獲得、維持方法については言及しない)

 

④権力者の味方をつけるということ。権威を以ってして主従関係を築く。

 

⑤味方にならなければ投資の対象として見ない。現代社会では更迭は難しい。

 その為、④に帰結するように、また自分の地位を危ぶませる増長をさせないように

 投資対象から外す。

 

⑥君主は自分と違う目標を持っている人間に気をつけるべきである。

 またこれを共有していないのであれば、両者の間で妥協点を探し落ち着けることである。

 白か黒かではなく、グレーに。肝心な両者間の最終判断時は白にも黒にも譲り合うことである。

 

⑦君主にとって異常は日常茶飯事である。が、異常に対処するものの力量不足や

 リサーチ不足が垣間見えた時、君主はいち早く自らこの課題に取り組むべきである。

 さもなければ、手に負えなくなった後に自分の耳に入るからである。

 (Neria哲学:まず耳で聞くのではなく目で見ろ。何故なら目は広く多くの情報を浅く手に入れることができ、

  耳は狭く多くの情報を深く手に入れることができるから。)

 

⑧時を待つのは環境の変化に流されるということ。

 波に揺られるのではなく、波に乗ることこそが必要。

 揺られた方が良かった結果にならない為に日々の学習が必要である。

 

 

 

 

 

 

 

 

マキャベリの君主論を読んで③

新しい政体を獲得した際は、獲得した者の古い政体に付け加えられた部分は、

同じ地域と同じ言語に属するものか、そうでないかのいずれかである。

同じものに属する時は、それを保持するのは極めて容易である。

とりわけ、住民が自由な暮らしに慣れていない時は。

そしてその地の領有を確実にする為にはそれまでそこを支配してきた

血筋を抹消してしまうだけで良い。何故ならば、その他の面において、

彼らの旧来の状態を維持し、風習に差異がなければ、人々は平穏に暮らしてゆくから。

周知のように、長年に渡って、フランスに迎合されてきたブルゴーニュブルターニュ

グァスコーニュ、そしてノルマンディーの例を見れば、それはわかる。

 

たとえ言語に差異が多少あっても、風習が似ていれば、相互に容易く認め合うことができる。

そしてこのように新たな政体を獲得したものが、そこを保持したければ、次の2点を守らなければいけない。

1つは古い君主の血筋を抹消してしまうこと。

2つは住民たちの法律も税制も変えないこと。

そうすれば、彼らにとって古くから続くことになる君主政体と、ごく短期間のうちに、

そこは一体化していく。

 

だが、言語、風習、制度に差異のある地域で政体を獲得した際には、

様々な困難が生じてくる。この場合にはそれらを維持するために大きな幸運と、

大きな器量とが必要になる。

この場合の最上かつ最強の手当ての1つは、支配地を獲得した人物が自ら

そこに住みつくことだ。

そうすれば、領有はより確実で永続的なものになる。

まさにトルコがギリシアにしたように。

それゆえ、新しい政体を維持する為に他の全ての秩序が彼によって

正しく守られたとしても、もしもそこへ行って住まなかったならば、

そこを維持することは可能でなかったはずだ。

 

何故ならば、現地へ行って住んでいれば、無秩序が発生しても

事態を目の当たりにして、あなたは素早く手当てをすることができるから。

その場に住んでいなければ、事態が大きくなってから聞き及ぶことになるだろう。

その時にはもう手の施しようがない。

また、現地に住まえば、その地域を重臣達に奪い取られる心配もない。

臣民は、君主への訴えにもすぐに応じてもらえる為、満足する。

したがって、恭順な心の者達は、ますます彼を慕うようになり、また、

逆心を抱く者達は、彼を恐れるようになる。

外部から新しい政体を襲おうとする者も、事を起こすのにいっそう慎重になる。

こうして、現地へ住み着くならば、容易なことではこれを失わない。

 

 

Neria社会論

 

現地へ住み着くということは心理学でいう心的距離の利用である。

人間は自分に物理的に近い人間に対して関心を持つようになる。

逆もまた然りである。

つまり反乱やクーデターの原因は身を削られた客観的事実から、

身を削られたと思い込む主観的事実に自己の意見、集団の意見に帰結して

これが大きな語弊を招くことによる。

以降の章では現君主に不満を持つ人民が他国に手を貸し侵略の手助けをするが、

結局侵略が成功して自身らの君主が変わったとしても理想には至らず、

元の生活に戻ろうとする試みが働くという説がある。

つまり、行動への膨大な衝動とは客観的事実にバタフライエフェクトが起こり、

主観的事実、自己の意見、集団の意見と膨張した、もとい暴走した感情を起因とする。

当然ながらここにおいて重要なのは間違いなく客観的事実のみだ。

君主の身としては、この客観的事実、つまり膨張した集団の意見の根拠となる

この根っこを排除することにより行動原理を失わせることができる。

しかしながら膨張した集団心理はもはや論理性を失っている。

そうなればもはや原典などは関係がなくなり、目的と手段が逆転し、あなたを

排除して自己心理を納得させなければ気が済まないだろう。

そして、これを遠くにいる際に聞き及んだ時にはもはや手のつけられない状態になっている、

マキャベリは表現したのだろう。

当然これは人民にとっても君主にとっても良い結果とは言えない。

つまり鳥瞰的視点を持つ君主こそが人民を導かなければならない。

これには対の予防策が必要である。それこそ抑えの効かない感情の膨張に至る前に、

できれば客観的事実の段階でこれを指摘する者がいれば論理的に説得、及び

過ちを認めて修正する必要がある。

これは人民の為ならず自身と自身の君主の玉座の為である。

 

マキャベリ 君主論を読んで②

 

だが、振興の政体においては様々な困難が伴ってくる。

まず最初に、全面的に新しいものでなく、増築箇所のようなものでも、

この場合の政変は第一に振興の君主政体全てに付き纏う本来的な困難から生まれてくる。

 

すなわち、それら政変の元を成す困難は、事態がより良くなるものと思い込んで、

人民が支配者を変えたがることにある。

 

このような思い込みが彼らをして、彼に背かせ武器を取らせるのだ。

けれどもそれは思い違いである。何故ならば事態がより悪くなったことを

後になって彼らは身をもって知るのだから。

この様な事態の悪化は、新しく君主になった者が、軍事力によって、また新たな

獲得に伴って生ずる他の無数の破壊行為によって、住民に常に被害をもたらしてしまうという、

当然かつ自然な別の必然性からも生まれてくる。かくしてあなたは、その君主国を占領するに際して

あなたが被害を与えてしまった全ての者達を敵にまわすのであり、またそこへ導き入れてくれた

者たちを、彼らの思惑通りに満足させてやれないし、(哲;人間とは刹那的で短期的な報酬に具に反応する生き物である)

さりとて彼らには恩義もあるので、強い薬を使うわけにもいかないが為に、あなたは味方に

つけておくこともできない。何故ならば、その強大な軍事力に支えられたものでも、ある地域へ攻め入る時には

常にその地域住民たちの好感を必要とするから。

マキャベリ 君主論を読んで

第一章 君主政体にはどれほどの種類があるか、また、獲得されるか

 

全ての政体は、すなわち昔から今まで人々の上に政治権力を行使してきた

全ての支配権は、昔も今も共和政かさもなければ君主政である。

 

君主政体の種類

①支配者の血筋として長い間君主として続いてきた世襲の政体。

②振興の政体。(世襲政体が新たに獲得した支配地の政体を含む。)

②の振興の政体ができる支配地は、それまで君主の下で暮らすことに馴らされてきたか、

さもなければ自由であることに慣れてきたかであり、また、

獲得した際は、他者の軍備によったかさもなければ、自己の軍備によったか、

運命か力量のためである。

 

②よりも①の方がこれを保持する時の困難は少ない。

先祖伝来の統治形態を等閑にしないだけでよく、後は予測できない

変事に対しては、ただ適当に時を稼いでいれば良いのだから。

そうすれば、君主が並の器量の者であっても、よほどの強大な

権力が現れて彼から権力を奪おうとしない限り、己の政体のうちに留まることができるだろうし、

たとえ権力を奪われても、その簒奪者の身に不吉な影が忍び寄れば、それを取り戻せるから。

 

イタリアのフェッツェーラ公は支配地の中で君主としての家柄が古くから

続いてきたという理由によってのみ、1484年のヴェネツィアの攻撃に耐え

1510年の教皇ユリウスの攻略をも凌いだのである。

何故ならば生まれながらの君主は新しく君主になった者に比べて人を害する理由も

必要もあまりないから、それ故に一層人から愛されるようになる。

また、よほどの悪癖でもあって恨みを買わない限り、臣民に慕われるのは

自然の成り行きである。そして、また、支配権が古くから連綿と続く中では、

改革の記憶も理由も消えてしまう。何故ならば、1つの変革が次の変革を

構築するための噛ませ石を残していくから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会契約論を読んで

社会契約論第一遍

 

人間をそのあるがままの姿において捉え、考えられる限り最善の法律を定めようとした時に、

市民の世界において、正当で確実な統治の法則というものがありうるかということ。

 

人は自由な者として生まれたのに、至る所で鎖に繋がれている。

自分が他人の主人だと思い込んでいても、実はその人々よりもさらに奴隷なのである。

 

もしも力と、力によって生まれる効果だけについて考えるならば、

次のように答えられる。

「ある人民が服従することを強いられて服従するならば、それはそれで仕方のないことだ。

人民がその軛(くびき)を振り解くことができ、実際に振り解こうとするのなら、

それは早ければ早い方がいい。人民は、人民から自由を奪った者と同じ権利を持って、

自らの自由を回復することができる。というのも人民には自由を回復するだけの根拠があるし、

そもそも人民から自由を奪うことそのものが、根拠のないものだったからである」

 

社会秩序とは神聖なる権利であり、これが他の全ての権利の土台となるのである。

しかしこの権利は自然から生まれたものではない。合意に基づいて生まれたものなのだ。

それでは、この合意とはどのようなものだったのだろうか。

 

Neria社会論

 

社会とは一言に言えるが、実際に社会にはいくつかの階層があり、

この個々を社会と呼ぶことができる。例えば最近では各自治体を

国が小さな政府と呼び、国家レベルでの社会を市町村にまで落とし込んだ

ミクロソサエティによるローカル性を認めている。

社会とは国>都道府県>市町村>地域>町内会>家族のように

幾つかの階層毎に社会性を持っており、また、同様に友人、恋人

知人、ビジネスパートナー、ステークホルダー等他者との結びつきの

あらゆるパターンにおいてその大小に個別の社会性を見出すことができる。

(橘玲曰く:薄く軽い 政治空間>貨幣空間>愛情空間 厚く重い)

主にこれらは地域の広さやその人数に依存するが、全ては各集団に属す

各個人が集団社会の規則と契約をしてリソースをギブ&テイクして

集団の力で外敵を極力排除し、また外敵の力を抑制させ、

(アリジャムのススメバチとアリの実験:力を持つもの同士は共存の道を選ぶ。)

個である自己の保存を図る人間の生存戦略に基づいた本能の結果である。

 

しかし当人の遺伝や環境によってこれら社会に属すことによって享受される

リソースの有益性については個々に違いが生じる。

その為、当人は数ある小さな社会の中から最も自分にとって有益な

社会に属そうとその社会の持つ規則に自らのリソースを捧げ、能動的に契約をするのだ。

 

第二回、幸福と不幸の実態についての補足

youtu.be

 

1つ目の補足記事長さがやばいことになっちゃいました。

反省して短めにやりたいです。嘘です、絶対長くなります。

 

動画内容をまとめましょうか。

「幸福」とは「成長」と「補足」である。

「不幸」とは「劣化」と「不足」である。

 

ということで、これが幸福と不幸の実態ですね。

要するに双方を感じようと思ったら右のことをすればいいわけです。

じゃあ右4つの要素について分解して解説していきましょう。

 

①成長

 

「成長」というのはまぁ文字通り「成長」なんですけど、

これ、言い得て妙で、僕、たぶん(は?)動画で「成長を感じる」

ってワードを使ってたと思う、思いたい(は?)んですけど

別に実際に成長してなくても本人が成長してると思い込んでればOKです。

後ですね、まぁほんと文字通り「成長」なんで、

今やってることをまぁ簡単に目に見える形だとか感覚的にスコア化したら

最大スコア取ってる状態が「成長」ってことなんですけど、

例えばパーティで言う「成長」っていうのはパーティに参加したことによって

新たな人と出会えたとか、前より楽しめるようになった、とか

食べたことのない料理、見たことのない出し物を見ましたとかですかね。

自分の経験値が上昇してパーティによって得られる最大スコアを更新したということですね。

まぁ経験というのは蓄積するものなのでこういう場合は参加する度に

スコアが累積加算されてく傾向にあって、パリピとして「成長」できるわけですが。

こんな風に一見「成長」とは関係なさそうなことも、

経験値換算してみれば「成長」ですよ、ってことです。

スコア更新されると「達成感」を感じて「幸福」を感じることもあります。

まぁこれも若干わかりにくいですが、ギリ納得できると思います。

 

 

そしてこの「成長」って言葉。実はさっきから文字通りとか言って

暗雲立ち込めさせてるのには理由がありまして、

明らかにそれ「成長」じゃないだろ!みたいなものもこの「成長」という言葉に

含まれるんですね、それはもう動画では一切言いませんでしたが

補足なんで一応言っておきます。

この「成長」。一般の意味での「成長」としてしか普通の人は判断できないと思います。

しかし僕が使ってるのはただの意味の「成長」だけでなく

"心理学"的観点からの「成長」という意味合いのワードとしても使ってるんです。

つまり、俗に言う「成長」の定義とは少し異なる拡張された意味合いを持っているということです。

そして、その拡張された意味での「成長」に果たしてどんな状況が

拡張され含まれるのかということなんですけど、

 

これ、人を罵倒、つまり蔑むこともそれに含まれるんですよ。

 

 

よく見ますよね、Youtubeのコメント覧でも投稿者や人を罵倒している光景。

あれ、何が起きてるかというと、罵倒している人は「幸福」に努力してるんですよ。

何故かというと他人を貶めることによって相対的に自分を高めているから。

つまり、人を罵倒することが自分の「幸福」への努力としての手段になっている人がああいったコメントをするんです。

自分自身が絶対的に高まるのではなく、人を落として相対的に自分を高めるという手法です。

これ、凄く楽で、動画内でも説明してましたけど、普通自分が特定の幸福値、または能力値まで到達するのって

凄い努力量が必要で、凄く大変なんですよ。例えばゲームの実況などでは

やってる本人は結構必死にやってたりするんですよ。

でもそれを下手糞だとかいうと、言った本人はそれが事実かどうかに関わらず

その必死にプレイしている投稿者さんの一個上の幸福値までいけちゃうんですよ、相対的に。

つまり、本来その位置にいくのに必要な努力量、時間を伴わないでそこまで高飛びできちゃう(出来た気分になる)

裏技だったりします。まぁ裏技というには皆使ってるんでもはや周知の事実なんですけど、

カニズムを知ってる人は結構少ないと思います。

というか知っていたらとてもじゃないですけど実践できないですよね。

勿論ですが、これは極めて幻想に近い相対的な幸福値、能力値になるので

君も実際にやってみなよと言われるとたじろいじゃうなんてことがあったりしますね。

 

ということで、「成長」って言葉が難しいんですけど、

成長した気になる。だけでもOKなので、実際に成長する必要はないんですけど

日常的に「幸福」を感じるためには、いつでも自分で「幸福」を感じたい!

と思った時に、それが実行できる絶対的な能力があった方が色々捗ります。

まぁ、このYoutubeコメントで他人を罵倒するというのもいつでもできちゃう

コントロール可能な「幸福」を感じる手段なので、わざわざ自分が

努力するまでもない!っていうある意味賢い?選択肢ではありますけどね。

まぁどっちでもいいんですけど、人を罵倒することは"心理学"的には

ちょっと罵倒してる本人の精神に傷がつく諸刃の剣な要素もあったり、

後はよくない人を呼び寄せる瘴気のような要素もあったりで、

可能なら自分自身で努力してちょっとずつでもいいから

人を悪く言わなくても済むような絶対的な幸福値、能力値を手に入れることをお勧めします。

 

次に欲求値と成長と努力、能力との相関性の話をしますけど、

欲求値バーはどんどん時間軸でいう上の未来に移動していき、

努力エネルギーでイベントを押し上げなきゃ下にいっちゃうよ

て話をしたんですけど、これ物事には本気で取り組んだほうがいいってことを意味してます。

何かイベントがあるなら、本人の能力とその場での努力(パーティー)、または

その場に至るまでの準備段階での努力(試験とか)とかできる限り

本気でやってみようみたいな感じですね。

そして、そこでぐいーっと上の幸福値にイベントが押し上げられると

欲求値と比較して、幸福度合いが図れちゃうわけです。

そして、努力エネルギーは能力エネルギーに変換されてイベントの記憶として

媒介されるので(動画で何故言わなかった!)

また似たようなイベントが起きるときは"幸福"な状態からスタートして

尚且つ残存した能力エネルギーによって必要努力エネルギーは減らせて

またそこで努力エネルギーを使うことで更なるレベルアップができますよ。

ていう「幸福」の連鎖が発生します。だから物事には本気で取り組めば本気で取り組むほどいいよ!

ってことです。まぁ苦手なことだといっぱい努力してもまだまだ下の不幸ゾーンにいるよ

ってなっちゃうと気苦労も大きくなっちゃうんですけど、

積み重ねていれば必ず上の幸福ゾーンに到達するので諦めないでほしいですね。

 

最後に、一応能力エネルギーと似たようなものについて上げておきます。

これは、道具、人間と社会的環境ですね。社会整備といったほうが正しいかな?

要するに該当イベントに努力するのに自身の能力だけでなく、

使える道具、人間や社会的に使える環境というのも手助けしてくれますよ、という話です。

ただ、道具、人間や環境というのは使えるのなら積極的に使ったほうがいいんですけど、

能力エネルギーに大きく変換されるのは努力エネルギーだけで、

道具、人間と社会的環境については、あんまり変換されない、まぁ0ではないんですけど

努力できるほうが、個人の能力は高まりますよ、という話で、

道具と人間と社会的環境だけに頼っていると、実はイベントをそこそこの「幸福」値に

押し上げられても、能力は身につかなかったりしますので使用の際は、

「努力」することも忘れずに。

(道具と人間と社会的環境を利用すれば努力しなくても済んでしまうので

ちょっと言いたくなかったところですw

ただしうまく使い、努力と組み合わせれば大きな幸福値を出せますし、

特定のイベントには道具と人間と社会的環境を利用して、

努力のリソースを別のところに回せるので賢いテクニカルな使い方ができます!

・・・・ただ誘惑に負けて努力したくないから楽するためだけに使っちゃうというジレンマもあるんですが・・・。)

 

※「人間」って後から足したんで文章違和感あるかもです。

 

②補足

これは成長とはまた違って、足りない分を補うだけなので、

食欲とか、娯楽欲求のような人間の基礎的な欲求を満たすだけでおkなことに該当しやすいです。

マズローの5(6)段階欲求に見られるような現代の日本で言えば承認欲求ぐらいまでですかね。

自己実現欲求に関しては完全に「成長」の方に属しちゃう気がするので。

 

マズローの5(6)段階欲求・・・・

食物連鎖のようなピラミッド上の階層欲求構造で、

下から人間が生存する上で重要と見なされる欲求順に並んでおり、

低い下層の欲求が満たされると次の階層の欲求が表出するという説である。

一般的に下から順に生命的欲求(食等)→安全欲求(家等)→

所属欲求(社会的居場所)→承認欲求(評価)→自己実現欲求(自己理想)

(→超自己実現欲求(神))とされている。

なお、階層の順番には明確には個人差がある。

 

ただし、そういった基礎的なものが「補足」できないと、

不幸レベルは凄く上がっちゃったりします。

なので、まずこの「補足」を要求するイベントに関しては最優先で

面倒見続けることが大切なんですね。

ちなみに基礎的なイベントも勿論「成長」あります。

金銭的な能力であったり、食材を入手する手段の確保なんてのも

基礎的な欲求に対する「成長」感を感じることができる一場面だったりします。

 

 

③「劣化」

 

「劣化」についてなんですけど、何で「成長」の反対が「劣化」なのかというと、

感覚的にこの言葉の方がイメージに近いからそう呼んでいるだけです。

この「劣化」っていうのはまず1つが動画でも言ったとおり「努力」を放棄して

該当イベントを上に押し上げなかったから停滞して、基準線が上にあがったせいで

下にいっちゃったよっていうパターンと、

後、道具、人間、社会的環境、能力が喪失するパターンですね。

道具、人間や社会的環境を用いて幸福に維持していたイベントはそれらがなくなると

途端に真下に落ちちゃいます。

不便な気持ちが「不幸」の正体の1つの側面でもあるので、自己強化をして

道具がなくてもこの身ひとつあればの勢いで道具はあくまでも道具として使った方がいいですね(二度目)

ちなみにこの段階で上全部に「人間」というワードを足したんですけど、

頼っていた人間に裏切られるとそれが喪失するんでその人に依存していた

イベントが全部下に落っこちちゃって結構、大きな被害になっちゃったりします。

これに関してはですね、いつかやろうと思っている

精神は単体では存在できず何かに媒介させることでしか存在できないので、

壊れないしっかりとしたものに宿しましょうね、っていう話に通ずるもので、

特定の人に自分の信頼という名の精神を宿していて裏切られると

結構下降イベントが多くて不幸ダメージが大きいので

精神を宿す対象はしっかり壊れにくいものか見定めなければいけないんですよね、という話を軽くしときます。

芸能人が炎上しやすかったり必要以上に叩かれる、

ジャイアンがいいことしたらメッチャいい人に見えるけど

しずかちゃんが悪いことしたらメッチャ悪い人に見える理論のように、

本人の期待というか理想のような精神エネルギーを対象の人に媒介させた場合、

その人という依り代が壊れちゃって、(信じてた芸能人が悪さしたとかですね)

その人に宿して安定させていた自分の精神が行き場をなくして不安定になっちゃうから

必要以上に叩かれちゃったりするんですね。

本当は「悪さをしたから許せない!」じゃなくて

「あなたのせいで私の精神が不安定になったから責任を取って!」てことなんです。

なのであまり不用意に芸能人に自分の精神エネルギー(理想)を宿すのは推奨できません、

芸能人というのは全員偶像で、実際はテレビの前の視聴者さんと同じ人間で

綺麗でない感情も抱きますし、そういうものが意図しない形で出ちゃったりするので、

不祥事というのは絶対にあるんだ、って思って理想を押し付けない方が自分のためにもよかったりするんですよね。

そういう意味では芸能人の不祥事は不特定多数への無差別精神テロなんて言ってしまえちゃったりもするんですけど、

当のご本人も人間なので必要以上の個人的な責任の訴追はご勘弁してあげてほしいなぁと思う今日この頃です。(Neria責任論に由来する結論なのでちょっと世間と認識ズレてるかもです。)

 

 

④「不足」

これが一番深刻です。

正直、「劣化」については該当イベントが個人にとって重要でないケースも

多々ありますし、重要である場合日常的に行っているケースが高いので

基本バランスは取れてたりするんですが、

「補足」されなきゃいけない最低ラインのものが確保されないと、

不幸ベクトルへビューンです。

この「不足」状態を補うために努力エネルギーをここに全振りしなきゃ

いけなくなっちゃったりするんですけど、

そういう場合は努力エネルギーの配分を少し変えて

長期間のスパンで特定の「幸福」イベントに投資、強化してそれに媒介する

能力エネルギーに関連するイベントに徐々に拡張していくといいです。

ただ、やはり長い目で見ても長期の努力が必要になってしまうというのは

あると思います。ですが、逆に長期の努力によって「幸福」イベント値を

上げることができるので、「成長」への投資配分も考えてみてほしいところです。

1つの成長イベントに媒介する能力エネルギーは、関連する多くのイベントを補助してくれます。

その為、起点として一箇所育てて上げられたら、変化の予兆をもたらすはずです。

 

 

ということで、各項目、プラスいくつかの寄り道話をしてしまいましたけど、

おおまかなまとめは動画で言っていた通り、

「努力しようね」ってことだけなんです。

そして動画ではあまり触れなかった「道具、人間、社会的環境」の手段については、

一番必要な「努力」をしない楽するためだけに使っちゃうと本末転倒なので

Neria幸福論の体系上ではあまり、解説する意義は薄いかな、といった感じです。

 

本質はとても簡単なんです。

「幸福」へ向かう「努力」をすれば「幸福」になって

「幸福」へ向かう「努力」をしなければ「不幸」になる、というそれだけなのです。

 

本当はもう終わった方がいいのかもしれないですけど、

じゃあ「不幸」な自分は「努力」してないんだろうか。

っていう風になってしまう人もいるかもしれないので、絶対に人間は「幸福」になれるという希望の前提に帰結するようにお話をします。

 

1つ目にお話したいのはあなたの現在している「努力」が、

果たしてここでいう「努力」と同じものなのか、ということです。

違うものであれば「幸福」イベントは上にいかなかったりいきにくいです。

実はここでの「努力」という言葉はここまでのお話でも分かるとおり

一般的に使われている意味とはちょっと異なっているわけです。

例えば他人を罵倒する活動を一生懸命にしていることを世間一般では「努力」とは言いません。

しかし"心理学"的観点から目標達成への指向、到達への試みという点では

「努力」と見なせてしまうように、一般的に言われている「努力」が

ここでは「努力」と見なせない可能性があります。

例えば、人から何をされても言われても「我慢」する「努力」は

ここでは「努力」と見なされないのです。

それは逆に「努力」の「放棄」に近いことです。

問題解決を諦めて、自分の本当の願望を叶えるための「努力」をしていないので。

これは非常に難しい判断基準なんですけど、

つまり前述したとおり「努力」とは自分の本当の願望を叶えるものでなくてはならなくて、

願望から遠い結果を生むことに対しての「努力」の「幸福」イベントを上に押し上げるエネルギーは弱まってしまうんですね。

不条理な「我慢」をし続けるなんて本当はしたくないはずなんです。だからこの場合

不条理な「我慢」をしなくてすむようなことに「勇気」をもって「努力」することこそが

「幸福」イベント値を押し上げる正しい「努力」の方法であるのです。

 なので今一度自分はどうなりたいかを考えて、わからなければ憧れの人を単なるデータとして参考にするもよしで、それに対して必要な「努力」をちょっとずつでも初めてみることが大事です。

勿論、現在そのことに「不便」、「不幸」を感じているのであれば「幸福」に

到達するのには時間がかかりますし、必要「努力」量もかなりのものになります。

しかし必要「努力」量も累計なので、ちょっとずつでも未来を信じて

「努力」していけばきっと「不幸」地帯を抜け出せます。

 

 

ちなみに、また余計な話しちゃうんですけど

「努力って報われるの?」問題がありますけど、

例えば今までの話では「努力」「努力」って言ってるけど

それで「幸福」になれる保証あるの?みたいになっちゃいそうですけど、

正しい結論としては「幸福」は「努力」でしか手に入らない。ということで、

あまり「運」関係の話はしたくないんですけど、

宝くじ、買わなきゃ当たらない理論で、

宝くじを当てるためには買うという手段しかないんですよ。

同様に「幸福」になるためには「努力」するという方法しか個人はとれないので、

(道具や人や社会環境を利用する手もありますけど、これらは不安定なので

必ずどこかで自分の能力を身に着けるために積極的な努力が必要となります。)

これをするしかないということです。

他に「幸福」を手に入れる手段があるとすれば「運」です。

認知しえない人や、天からの思わぬ施しによって、挽回できちゃうパターンです。

ですが、「努力」することに懐疑的で「運」を信じるというのはちょっと

理屈としては引っかかるので、仮に「運」を信じるにしても

「努力」も両方したほうがいいと思います。

人に話しかけられるのを待つより、自分から話しかけたほうが人と話せます。

自分から話しかける人にも、勿論人から話しかけられることがあります!

「運」を信じたい人も「努力」しないのではなく両方の恩恵受けちゃいましょうということです。

自分を「不幸」から助けてくれる誰かを待っている間に自分でも出来ることがいっぱいあるのです!

そして、自分を「不幸」から脱却させる力は十分人間には備わっています!

 

そして2つ目、ということでいつ終わるんだという感じですが

文章書くだけだと楽すぎて手が止まらないですね、まずいまずい。

寄り道しすぎて元の問題が怪しくなってきましたが

「努力」しないと「不幸」になるなら

「不幸」な自分は「努力」していないのかという認識に対するお話ですね。

2つ目は、

「努力」しているけれど、まだ「不幸」ゾーンにいるだけ。って感じですかね。

勿論その「努力」は「幸福」へ繋がる正しいものではあるけれど、

必要「努力」量にまだ達していなくて、上には進んでいて

このままいけば「幸福」ゾーンに入っていくけど、

まだ現時点では「不幸」ゾーンにいるねっていうお話です。

後、特定イベントへの「努力」の手段の有効性にも差があるので

上に押し上げる力の効力が弱い手段を選択していると時間がかかっちゃったり

するかもしれません。

でも、上に上げているのには変わらないので継続が大事です。

やり方を変えてみてもOKです。

 

ということでここで終わります。

補足とかそういうレベルを超えている気もしますけど、

案外話せる内容って結構あるんだなーと記事にして思いました。

というかこれでもまだ嵩まないように押さえ込んでいるレベルなんですよね。

「幸福」になることについて具体性を出したらもうヤバいですよ。

 

右下で文字数が見られるんですけど、7900字だということで・・・・。

しかしコンパクトにしないことがコンセプトなので

たぶん暫くこのノリで続くと思われます。

 

体力のある方はお付き合い願います。