人生攻略法を考える

哲学を使って人生の選択に最適解を出していきます。

幸福論について

以前、幸福論について考えたことがあります。

3年前のことでしょうか。

その時に僕は人が人生を生きる意味は幸福になるためであると言っていたようですが、

少し考え方が変わったので記述しておきます。

 

人間が生まれてくる理由は、人間の繁殖というシステムに基づいた無機質的なものであるという事実が存在します。

人は幸福になるために生まれてくるのだ、という以前の考えは後付けの恣意的な理由です。

おそらく、この論は人間が生きる上では目的が存在するはずで、その目的はポジティブなものであるべきだという希望論のようなものだと思いますが、

この幸せの希求というのは非常に難しい問題であるために、あまり目的として固執するような概念ではないように感じている今日この頃です。

 

例えば、幸せを手に入れるために僕らが何をすべきかという以前の考え方からすれば、

自分が美味しいと思うものを食べよう。というのが1つの答えであったと思いますが、

かと言ってはたして本当に美味しいものを食べ続けていいのかという疑問があったりします。

 

2ちゃんねる創設者のひろゆきさんは、「生活レベルをあげるな」ということを言っています。これはつまり、いい食べ物やいい洋服を日頃から好んで購入していると、

幸せを感じる基準がそのレベル以上になってしまい、幸せを購入する単価が上がってしまうというものです。これを心理学では「限界効用の逓減」というのですが、

結局いいものを買ったところで一時的に幸福になったような錯覚に陥るけど、長期的に見れば不幸になりやすい状態になっているので、生活レベルをあげるのはよくないよねという結論がある程度正しいのではないかという話です。

 

僕もこの意見には賛同で、僕にとって一番幸せな時期だったのは、小学校、中学校の頃友人とゲームに没頭していた時だったなぁということと、

人生で食べた中で一番美味しかった食べ物は、3日間の断食後に食べた100円のクリームパンだったなぁということから

いいものを買えば暮らしが良くなるというのは割と違ってるんじゃないかなと思っているところがあるんですね。

ちなみにこの美味しいクリームパンを再現するために最近、朝と昼を抜いて

3時ごろにクリームパンを買って食べてみたんですが、やはりとても美味しかったです。

 

話を戻しますが、特にこの2つはお金がかからないんですね。

最近貯金に興味を持ち始めたんですが、人間突き詰めるとどこまで支出を減らせるのかというちょっとした限界に挑戦する日を設けています。

働き始めの頃は「お金がある=使える」と思って欲しいものはすぐに買っていたし、

それが自分が納得できる生き方だと思っていたので当たり前だと思っていたのですが、

ふと思えば自分が一番楽しかった時期はお金なんか子供のお小遣いほんの一握り程度だったことを思い出したのです。

 

100円でポテトチップスを買っていた頃から、

美味しいとは言え大好きなビーフジャーキーを買うようになって、支出が4倍ほどになっているんですね。

当然、収入が違うわけですからそういう暮らしをしていても何ら問題ないわけですが、

一説にはこれは必要のない支出であるという考え方があるのも事実です。

クリームパンが美味しいならクリームパンを買えばいいということですね。

 

ただ不思議とものを買う前はこれじゃないと自分は納得できないと思ってしまうもので、ここの頑固な自分をどう説得するかが鍵になるわけですが、

Aプランを望んだ自分に無理くりBプランを適用しても、結局1日たてば

どうでも良くなってしまうので、ここを何とか乗り越えて無駄な支出を減らしています。

 

新入社員だった頃に1年で100万円貯めようと目標を立てていたんですが、

この時先輩社員に100万なんか貯まるわけがないというように言われて、

実際に60万ほどしか貯められなくて、貯金って難しいなと思っていたんですが、

今は割と散財していてもかなり貯金できるようになって、当時自分は何に苦労していたんだと思っています。

 

ちなみに参考までになんですが、

僕の家にものは増えてないし、本当に必要なものしか買っていません。

食べ物や飲み物も安いものを選んでいます。

あとは遊びではものすごく散財はしています。

心理学では「心理会計」という言葉があります。勤務中のランチは節約するくせに、

勤務後の居酒屋ではいくら払ったかわからない状態でも心理的にダメージを受けないというものです。

これは高くてもいいけど、こっちは高いと気になるみたいな感じですね。

この罠にはいまだに多くハマることがあって、結果的に年間を通してみれば

もっと貯められたなという反省しかなくなるのです・・・。

 

例えば服に年間40万ほど使っているんですが、はっきりいっていらないです。

見栄にかかるお金というのは本当に高くつくなぁとつくづく感じています。

あとは未だにソシャゲにかなり課金しているのもどうにかしなければと思っています。

 

とまぁそもそも自分の幸せに本当に必要なのか?というところを削った上で

そのうえで、幸せなことをしていけばコスパ良く暮らせるのではないかと思っています

 

ちなみに、以前の僕の幸福論では絶対的幸福論と相対的幸福論という、

本来自分が好きで幸せを感じることと、他人と比較した上で幸せを感じるものという二つの幸福観があるというように定義づけていました。

この考えは今でも変わりませんが、当時はこの幸福論は思考の傾向という観点から人間の良い思い込みと悪い思い込みという二分として挙げていたようですが、

 

最近の僕の考えでは、幸福観というのは幸福を感じていればそれで良いというより、

実利や事実に基づいて逆算して幸福であるという認識をするという考え

が重要なのではというものになっているんですが、

当然、あなたは恵まれない人に比べて幸福なんですよと言われても自分の人生にモヤモヤしてる人が納得するのは難しいんですが、

ただ、適切な事実を理解しておくことは今の時代重要なんじゃないかなと思うのです。

この適切な事実の理解というのは少し人間には残酷なものです。

それは人間の感情に反するからです。それでもそれを認める勇気が現代には必要な気がしています。

 

例えば、少し前から話題が上がるようになった持ち家と賃貸どちらが良いのか、

だとか、ブランドものを買うのってどうなの?とか

こういうものって、自分が幸福になる選択をしろと言われたら、それが自分由来の絶対的幸福感でも他人や社会由来の相対的幸福観でもどちらでも

選ばれる選択肢って決まっているような気がするんですけど、

これってでも割と割高だったりするし、後々のデメリットも存在したりするんですよね。

 

ブランド物なんか特にそうです。

僕は昔はブランドものを好んで着てたんですけど、

今の僕からすれば過去の自分がブランドものを着ていようが着ていなかろうが

とてもどうでも良いことなんですね。

同じように、他の雑貨などにも言えます。

未来の自分がそれを必要としていない、というものにかかるコストの多くは

必要のないものなのかもしれません。

 

ということで、刹那的に幸福を感じることだけしていても

それもまた違っている気がするので、そのあたりについてまた整理していけたらと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

並木将央 成熟社会のビジネスシフトを読んで①

成熟社会のビジネスシフトとは、成熟社会とは過去の人々の需要がはっきりとしていた

時代、成長社会と比較して誰もが物的不足を感じず、生活には困らず、

新しいものを欲しがらなくなりされど生活に感情的な不足を抱え得ているが故に、

どこかしらに需要が存在しているのであり、感情から逆算しないと見えてこない

本人すら理解していない透明の需要を企業が見抜く必要があるという新しいマーケティングが

成功に要求される社会である。働けば働くほど成長した成長社会とは違って、目指すべき

ポイント(ゴールと書かないのは時代の変化の速度が上がっている現代で停滞という選択肢はない為)

の把握に時間がかかる、また、これは演繹的な方法でしか確立できないものであり、

そもそも需要というものを考える必要があるのかどうかすら疑わしいありふれた情報によって

作られた複雑世界でどのようにこの状況の社会でビジネスしていくか、俯瞰的な歴史推移の観察の元

著者が提案する変化方法である。

 

歴史の推移

 

人口増加➡︎労働者と消費者の増加➡︎1945年戦後➡︎不足不満の蔓延➡︎日本経済復興への舵きり

➡︎朝鮮戦争➡︎モノ=幸せの価値観➡︎高度成長期、核家族化➡︎1968年GDP2位➡︎市場が活発化、高所得化

➡︎知的労働者の台頭➡︎1985年男女雇用機会均等法➡︎教育水準上昇、女性の社会参画

➡︎不足不満の解消➡︎大学の標準化➡︎1991年バブル崩壊➡︎1995年ITによる仕事の高速化

➡︎高学歴化による社会に出る年齢の遅れ、子供育成のコスト増➡︎多様性、晩婚化

➡︎2008年人口減少➡︎2008年不況、リーマンショック➡︎労働者と消費者の減少

➡︎大量生産による供給過多➡︎モノやサービスに溢れる➡︎質がよく安い商品が本格化

➡︎物価下落、新たな付加価値を欲しがる➡︎企業のビジョンが見えず将来が不安に

➡︎自分の生活を守る方向意識が向く➡︎2017年大学生が就職したい企業1位2位公務員

➡︎マインドシェアが重要➡︎シンプルライフ、エコノミー、シェアリング

➡︎長寿による「消費=幸せ」の崩壊➡︎誰もモノやサービスに困らない時代

➡︎実存的虚無感と関係性重視➡︎ローカルコミュニティの発達➡︎所属、承認、自己実現欲求のループ

➡︎企業における感情マネジメント➡︎パラレルキャリアの発達➡︎働くことが趣味化する

➡︎コミュニティ同士の共存共栄と個人の多様化、個別化

➡︎統合と分離の矛盾統合による実存的虚無感の解消

 

上記は著者の提唱する成長社会から成熟社会へのビジネスシフトスキーマであるが、

歴史から辿っていくと史実から課題へ突入していくことがわかる。

特に以前とは価値観が大きく変わり、ほぼ全ての人間がおおよそマズローの6段階欲求で言う

1次の生存欲求が満たされた状態で、高次の段階である安全欲求、社会(所属)欲求、承認欲求、自己実現欲求が

多様化し、またコミュニティの多様化から人間関係の中で価値観の相違を年齢に関わらず、

重視するようになり、結果、1次の生存欲求以降の欲求階層に変化が生じたと見ていい。

自己実現欲求➡︎承認欲求➡︎社会(所属)欲求➡︎安全欲求 昨今本著の様な暗雲に光明を差し入れる類の

哲学者もとい研究者の示す情報需要が増加している。それもそのはず、昨今の生きづらい人生の原因とは

多様性からくる価値観の相違であり、価値観を共有できる他者と出会う機会がないからである。

つまり、価値観は人それぞれなのではなく、自分の価値観を価値とし、他者にそれを認めさせ、

(その手段として自己啓発本などで自分に価値があるということを事前に立証しようとする。)

その同等の価値観を持った人間の中で社会(所属)欲求を満たし、それを持って社会性不安、つまり

安全欲求を満たすのである。人との繋がりが自分=他人ではなく、自分の価値観=他人の価値観に

重きが変わってきている。

 

Neria社会論

 

既に上記には本著に対する恣意的な解釈もとい、私自身の意見が見受けられるが、

Neria社会論としては、やはりこの根底に国の先行きの見えない長期的な不安に対して

短期的な不安解消が求められ、その手段が多岐に渡っているが故に、人は

不安解消と人間関係において多くの変化を求められているという社会問題に

フォーカスを当てなければならない。本来本著では変化した社会情勢を鳥瞰的に捉えた上で

どの様なニーズを見出しビジネス展開をしていくべきかについて触れているが、

実際この消費者が需要を理解していないのは1つの社会問題に感じる。

つまり、脳を使うことを諦めて行き当たりばったりで人生を歩んでいく。

また、これに伴い複雑社会のどこかへ消えたシンプルな価値観すら失い、

目的なき人生を歩むこととなる。つまり、これは環境依存型の人生であり、

果たしてこの人に少しでも考える頭があれば回避できた「望まないこと」に対して

何の対処も施すことができなくなってしまうのである。

元より自分の人生に命題を見出すほど大それた自己啓発などは必要ないが、

欲しいものも分からず、必要なことすらわからず、やりたいことも、目指すべき場所も

何もない無宗派の僧のようになってしまえば、後は運命に身を任せるだけであり、

この人が本来確固として持っていたはずの「望まないこと」に対しても鈍感になってしまう。

我々は果たしてこれを人と呼び、その様な人間になりたいのだろうか。

 

問いを投げかけたところで、話は変わるが現実、問題の根底には個人が価値観を見失っている

という現代病が蔓延していることは何となく分かるが、それでも幸福な人間と

不幸な人間は明確に分かれている。では、この違いは何なのか。

これに言及するとNeria幸福論の問題になるので、ここでは端的に社会論的に必要な

不幸なものについてだけ幸福論から抜粋して論じようと思う。

つまり、現代の人々が抱える不幸とは個人における絶対的な需要、これを「絶対的幸福感」と呼ぶが、

これが標準化されたことによって、他者から抜きん出る人間の本能である成長意識は

他者との単純な比較による「相対的幸福感」によって生じているのである。

つまり、不幸を生み出す原因は他者との比較である。個人に何が足りないか、何が欲しいかではなく、

他者にどこが劣っているかで如何に自分の日々の鬱憤や原因、責任の所在を不幸に転換するかどうか必死に

探しているのである。だが、当然の如くプライベートで好きなことをしている時間にわざわざ

リソースを奪い合っているわけでもない他者と比較することに何の意味もない。

(幸福な人間は自己の需要を理解し、それを満たす為の活動に情熱を捧げている。幸福度とは熱量である。)

従って、Neria幸福論ではこの「相対的幸福感」のことをリソースを無駄にする幻想と一蹴している。

ただし、当然の如く他人から抜きん出ることが需要であればそこにビジネスチャンスが見出せるが、

堀江貴文曰くここでのイノベーター、ファーストペンギンになるのは非常に難しい。

何故かと言えば日本人は自己の安全の為に他者を犠牲にする功利主義の民族だからである。

他人が試して安全であれば、利益的であれば真似をする、悪く言えばそういう狡猾さを持っている。

が為に、彼は自著の中でイノベーターにセカンドペンギンになれ。と言っている。

つまり、他者の中に需要を見出しても本人がそれに気付いていないのだから、

これに気づかせ納得させることは相当に骨が折れるし、果たしてそんな顧客を相手にビジネスをしたいだろうか。

はっきり言うがこの様な顧客は後々非常に面倒なビジネスパーソンとなる。だからして、

目的もなくソーシャルゲームにこうじたり、Youtubeで動画を見たり、Yahooでニュースを見る人間は

無駄にネガティブな文句が多いのである。そこにある付加価値を素直に認められない。

何故かと言うとそこに自己にとって有益な目的がないから。通常の感覚で言えば、何かしら不平不満があれば

その場からすぐ立ち去るべきであるし、目的があるのならばそれを達成しようとするし、

快適にサービスを活用できる製作者にまず間違いなく感謝し己が利益に変えていくべきだし、

これもなくただ自分が不幸であることの証明に何でもかんでも使えばいいというものではない。

(ただしメディアというのはこの様な目的意識のない人種をターゲットにしている為、

むしろ昨今の不幸社会では特需と言って良いほど需要が生じている。)

本来ビジネスにおいて文句など必要なく、数字が文句の原因を示しているのであれば改善を促し、

それでも対応せず数字に良い変化が起きないのであれば契約を解消すべきだ。

 

さて、ビジネスとプライベートの話が混在して申し訳ないが、

最終的に何が言いたいかというと情報があり触れた複雑社会の中で

良質なシンプルな情報を抜粋する必要があるということである。

これは例えば流行りの本を読むこと。

実は幾つも良質な(と思われる)本を読んでいると同じ出典から引用されているケース

が多く見られることに気づかされる。それこそが現代複雑社会のシンプルな

スタンダードであり、(正しいか間違っているかはさておき)

人々が認識すべき明確な指針であることには間違いない。

私も数多くの名著からその様な情報を抜粋、自己流にブラッシュアップして皆様にお届けしていくが、

一度、複雑になりすぎて当たり前のことすら分からなくなった社会を整理して

シンプルな誰にでも適用できる法則というものを法典としなければならない。

私の目的もそれに他ならないし、現在読み進めている社会契約論を論じた

ルソーも同様のことを述べている。結局なあなあになり曖昧なまま

複雑社会の荒波に揉まれて単純な真実すら見失うよりかは

これだけは忘れてはならない人類のスタンダードを設ける必要がある。

これがNeria○○論の目的であるが、

 

今回本著を学習するにあたっては、誰しもが生きることに物理的に事欠かない成熟社会で

企業目線で顧客のニーズがどこにあるかを模索することを習得することを目的とするので、

顧客に変化が求められている、また、読み進めていないので後にどう述べられるか分からないが、

時代の潮流に乗っていない顧客とはビジネスしないという私の自論も別の機会で考察することとする。

 

 

 

 

社会契約論を読んで②

第二章 家族という結びつき

 

全ての社会のうちで最も古い社会は家族であり、これだけが自然である。

ところで子供達が父親との絆を維持するのは、生存する為に父親が必要な間だけである。

父親の保護が不要となれば、この自然の絆は解消される。

子供達は父親に服従する義務を解かれ、父親は子供達を世話する義務を解かれる。

こうして父親も子供達も独立した存在に戻るのである。

もしその後でも親子の絆が保たれるとするならば、それは自然な結びつきによるものではない。

両者が結びつきを望んだが故に維持される合意なのである。

そもそも親子ともに自由な存在であり、この自由は人間の本性によって生まれたものである。

人間の社会の最初の掟は、自らの生存のために努力することであ理、最初の配慮は自己に対する

配慮である。そして理性を行使できる年齢になれば、誰もが自分の生存にふさわしい手段について、

自らを判断するようになる。こうして人間は自分の主人となるのである。

 

このように家族というものはいわば、政治社会の最初のモデルである。(最小単位の縦社会。横社会は友人)

支配者は父の似像であり、人民は子供の似像である。誰もが平等で自由な存在として生まれたのであり、

自らの利益に

 

Neria社会論

社会論における運命論だが、

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」この世界均衡仮説において

誰もが平等な存在であるとここでルソーは述べているが、実際は大きく異なる。

人間の自由を決めるのは、「遺伝」と「環境」と「運命」だからである。

上記条件から不自由に生まれる者もあれば、自由に生まれる者もある。

概してルソーは後の章にて奴隷は奴隷として生まれ、君主は君主として生まれると述べている。

論としてはこちらが正しい。自由な存在というのは他者の持つ自由(特にこの自由幅を

人生のうちにリソースを用いて膨らませたものを既得権益と呼ぶが)に常に脅かされるものであり、

自由には強弱が存在し、自身が持って生まれた自由の強弱によっては他者を生まれながらに不自由に

することも可能だし、逆に他者の自由によって不自由に生まれることも可能であるということである。

人間の生存目的を自己の保存と仮定するのであれば(子孫や情報を後世に残し伝達保存する。)

手段はどうであれ自由がなければ他者の保存に使われるのみであるからして、

現在に与えられている自由のリソースでいついかなる時も他者にこれを侵略されないように

拡張しておく必要がある。これが人間が自己の保存のために日常的に行わなければならない

「生きる」という義務である。(橘玲:金融資本、人的資本、社会資本の拡張)

 

マキャベリ 君主論を読んで⑤

様々な差異のある地域に移り住んだ君主は、さらに、

近隣の弱小勢力群の庇護者となり盟主となって、その地域の強大な勢力を

弱めるように努め、例え予測できない変事が起こっても、自分と同じくらい強大な

外国勢力がそこへ入り込むことのないように警戒しなければならない。

そしてそういう強大な外国勢力が、その地域で身の程知らぬ野心や恐怖心から

不満を抱く者達の手によって招き入れられることは、常に生ずるであろう。

すでにその例はアイトリア人がローマ人をギリシアに導き入れた時に見られた。

そして、ローマ人が占有した地域では他のどこであっても、それぞれの地域の者達に

導き入れられたのである。そして事態の推移は次の如くになる。すなわち、

ある強大な外国勢力が1つの地域に侵入するや、そこに割拠する弱小勢力軍は、

それまで自分たちの頭上に権力を振るってきた者への妬みと憎しみに駆られて、彼の側へ帰順してくる。

従って、これら弱小勢力群に関する限り、彼としては味方に引きつけるのに何の苦労もいらない。

何故ならば、彼らは皆すぐに彼が新たにその地に獲得した政体と一体に化したがるからだ。

ただ、彼らの勢力や権力があまりに大きくならないようにだけ、考慮しなければならない。

そうすれば彼は自己の勢力と彼らの援助とを併せて、強大な勢力さえたやすく弱体化させ、この

地域における全面的な支配者になれる。

そしてこのような動向を巧みに見抜けないものは、自分が獲得した支配地をたちまちに失ってしまう。

また、例え保持していても、その間に無数の困難と煩わしさを抱え込むことにになる。

 

ローマ人は、攻略した地域において、このような規則を正しく守った。すなわち

植民兵を送り込み、弱小勢力群を手懐けながらも彼らの権力を増大させず、強大な

勢力を弱体化させ、強大な外国勢力に付け入る余地を与えなかった。

その例としてわずかにギリシア地域を挙げるだけで私には十分である。

すなわちアカイア人やアイトリア人は彼らローマ人によって手懐けられ、

マケドニア王国は打ち負かされ、アンティオーコスは追い払われ、またアカイア人やアイトリア人の

功績であるのにも関わらず、彼らの勢力を拡大させるような真似は許さなかった。

さらにフィリッポス王が甘言を弄して近寄ってきても彼を屈服させずには味方へ引き入れなかったし、

アンティオーコスの勢力がいかに強大であれ、その地域に彼が何らかの領土を保有する事を

ローマ人は許さなかった。それゆえローマ人はこれらの事態の中で全ての賢明な君主が成すべき

事を成したのであった。すなわち賢明な君主であれば、単に当面の騒乱に

対してだけでなく、将来にも備えて、全力を挙げて対策を立てねばならない。

何故ならば、早くからこれを予見するならば、容易に治すことができるから。

しかし、あなたの目の前まで近づいてくるのを待てば、薬は間に合わない。

何故ならば、病が癒し難いものになってしまっているから。そして、この場合には、

あたかも肺を病む身体に関して医者の言うようなことが起こる。

すなわち病気の初期においての治療は易しく発見は難しい。

だが時が進むにつれて、初期の発見が遅れて治療も施さなかったがために、

症状の発見は易しくなるが治療は難しくなる。

それと同じような事態が政体に関しても起こる。すなわち、その政体のうちに

生まれつつある病を早くから発見する時には、ーただしこれは思慮深い人物のみに許されることであるがー

速やかに治癒させられるから。だが、その症状を発見しなかったが為に、誰の目にも

それだとわかるほど事態を放置してしまった時には、もはや手の施しようがない。

それ故にローマ人は、早くから不都合を見つけると、常に治療を施した。

そして戦争を避けようとして事態をそのままに放置した例はなかった。

何故ならば、戦争が避けられないものであり、先送りすれば相手に利するだけである事を知っていたから。

それに故に彼らは、フィリッポスを相手に、またアンティオーコスを相手に、ギリシアで戦争を起こしたのであり、

それはイタリアで敵と戦わない為であった。その時に、両次の戦争を避けようと思えば、そうすることも

できただろう。が、彼らはそれを望まなかった。

また、私たちの時代の賢者達が日々口にする、時の流れの恵みを持つというやり方を好まずに、

むしろ潔く自分たちの力量と思慮に身を委ねる事をよしとした。

何故ならば、時の流れはあらゆるものを前へ追い立ててゆき、善と同様に悪を、そして悪と

同様に善を、流れとともに運び出してゆくから。

 

 

Neria社会論

 

私はこれからもこの文言を述べ続けざるを得ないだろうが、

時として世界の名著を読み思慮するたびに、我々の住む時代、またこの地域において

果たしてこの歴史上の正しいとされた道は同様に正しく適用されるのか、という疑問を持て余す。

決してそれが、歴史を省みない決定的な理由にはならないだろうが、我々は現在かのイタリアの

君主における正道を辿る術を持ち合わせてはいない。

何故ならば日本は敗戦国であり、アメリカの庇護にあるという名目の元、

前社会契約論におけるNeria社会論、自己保存の為の拡張(=既得権益)を許されていないからある。

よって、現世において日本が現在の諸外国のみならず、歴史上の君主の正道を辿ることは

前提からして不可能であるということである。

もし我々が日本という国を民主制という国民1人1人の代弁者たる総理大臣という人格の元、

自己保存を図ろうとすればこれは容易に諸外国に阻害されるであろうし、あろうことか、

GHQの望んだ戦争忌避の概念が標準化された味方にすら阻害をされるという始末である。

無論、私の意見としては歴史を省みてもいつの世も戦争は起きるものであり、

これが世界の形態を現在の形まで変化させてきた。未来への変化とは常に戦争が招くものであり、

またこれは防ぎようのないものである。その上で勝者として生まれるか、敗者として生まれるか、

これが現在では出生段階で選ぶことができない。その為自国、こと日本に残る意思を持てば、

無論戦争の敗者になることは必至であるし、日本を出て勝者の国に移ればこの心配はなくなる。

そういった意味では、戦争の勝者、または敗者になるかの選択が可能である分、日本がまだ

裁量のある国家であることは否めないが、多くの国民の意見としては恐らく日本保存、自己の無変化、

また、戦争の忌避を人生の前提として据え置きたいところだろう。

だが、昨今の世界情勢を日本を中心に考えてみよう。戦争が衝突であるならば、

互いの感触を確かめ合う摩擦のようなものが政治であり、この観点で他国との関係を見てみれば

これはもはや一目瞭然であるが、まず、権威については度外視され眼中にない。

そして地理戦略として侵略されている。そしてその侵略は尽く成功に帰結している。

無論、武器を持たぬものに多勢に無勢、力で挑めばこの勝敗を憂慮する侵略者などいるはずもない。

精々侵略の際に考慮する余地があるとすれば、侵略を他国に宣言しているという見解を表明する

タイミングに過ぎない。と、日本という国はいつでも他国の君主からしてみれば破壊の容易い

戦争の窓口でしかないのだ。もしこれを転じようとするならば、アメリカの協力は必至であるが、

アメリカは日本の保存に興味など持っていない為、決して味方にはならないだろう。

詰まるところ、我々日本人がマキャベリの記述した歴史書に学ぶことがあるとするならば、

極めて小さな社会の中でのみこれを活かすことができるということだ。

長くなったが、本来であればこれは第一編第一章の際に申し上げるべきことであった。

それを謝罪した上で、小さな社会の小さな君主についてこれを社会学的観点から考えてみようと思う。

 

君主が既得権の拡張を行う際に守らなければならない事項というものを

マキャベリはイタリアからギリシャへの侵略を例に挙げた。

同様にこれを会社から会社へ、組織から組織へ、人から人へ適用するのであれば、

一体どのようになるのだろうか。

①奴隷に害を成さない家系であれば君主の継承後も維持は容易い。

②奴隷が君主と同じ価値観を持っていれば、前君主の血筋を無力化し、規則を変えなければ良い。

③価値観が違えば、君主自ら監視を行う。

④支配地の権力者に恐怖政治を行い、この部隊を掌握すること。

⑤さもなければ更迭してしまうこと。

⑥君主は自分と最も関係性の薄い反抗的な奴隷に気をつけるべきである。

⑦君主は異常を見つけたらこれに対していち早く対応すべきであり、

 また、それに全力を注がなければならない。

⑧これら全てを行うこと。時の流れに身を任せれば善を失うことになるから。

 

この8つの項目を羅列させるとまさしくワンマン組織がイメージされるが、

マキャベリは君主論において共和政についての言及を避け、あくまでも

君主政のみについて触れているので、今回はここを深掘りすべく、

横社会(友人、恋人、家族)については考慮しないこととする。

 

つまり、上文でも挙げた通り君主政というのは現代でいう縦社会の

ワンマン組織を上げるのであり、またこの必要性については、

ケースバイケースで、ある組織が最も生産性、効率を発揮するには

横社会よりも縦社会であった時であった場合であり、これは環境、

つまり組織を形作る人材や、また組織を取り巻くステークホルダーの存在によって

決まるものである為、君主政が適すか共和政が適すかという議論は

実例に沿わない限り困難を極める為、これにもここでは言及しないこととする。

 

つまりワンマン組織がうまくいく為に、TOPである君主が何をすべきか

ということが君主論から学びうることであり、我々はそれを求めてこの

史書を読み進めなければならない。また、共和政、つまり組織を一個人の

視点から捉えたルソーの社会契約論を同時に読み進めることにより

この2つの統治法の排他的な相違点に気づくことができ、組織における

リーダー、構成員、各観点から見た最良の組織形態を見出すことができ、

かつ、そこで最良の選択を行なっていけるだろうが、それはまた別の機会とする。

 

話を元に戻そう。

①奴隷に害を成さない家系であれば君主の継承後も維持は容易い。

②奴隷が君主と同じ価値観を持っていれば、前君主の血筋を無力化し、規則を変えなければ良い。

③価値観が違えば、君主自ら監視を行う。

④支配地の権力者に恐怖政治を行い、この部隊を掌握すること。

⑤さもなければ更迭してしまうこと。

⑥君主は自分と最も関係性の薄い反抗的な奴隷に気をつけるべきである。

⑦君主は異常を見つけたらこれに対していち早く対応すべきであり、

 また、それに全力を注がなければならない。

⑧これら全てを行うこと。時の流れに身を任せれば善を失うことになるから。

 

これらの8つ項目を実際に組織の中でありうる事例に変えて見ていこうと思う。

 

①天皇制である。また名が知れた会社もこれに当たる。

内部的に見れば、順当な役職、役割の継承である。つまり、客観的に次は誰が

特定の役職、役割に継承するか分かった状態で引き継がれることである。

 

②  ①で着任した新しい組織のリーダーがその他の構成員に理解があれば、

 ただ構成員にとって利益のある伝統を絶やさず緩やかな変化を起こすだけで良い。

 

③ 反抗的な他者を従わせるのは力であり、リーダーの権威によって反乱分子の

 出現、成長を食い止めることができる。(権威の獲得、維持方法については言及しない)

 

④権力者の味方をつけるということ。権威を以ってして主従関係を築く。

 

⑤味方にならなければ投資の対象として見ない。現代社会では更迭は難しい。

 その為、④に帰結するように、また自分の地位を危ぶませる増長をさせないように

 投資対象から外す。

 

⑥君主は自分と違う目標を持っている人間に気をつけるべきである。

 またこれを共有していないのであれば、両者の間で妥協点を探し落ち着けることである。

 白か黒かではなく、グレーに。肝心な両者間の最終判断時は白にも黒にも譲り合うことである。

 

⑦君主にとって異常は日常茶飯事である。が、異常に対処するものの力量不足や

 リサーチ不足が垣間見えた時、君主はいち早く自らこの課題に取り組むべきである。

 さもなければ、手に負えなくなった後に自分の耳に入るからである。

 (Neria哲学:まず耳で聞くのではなく目で見ろ。何故なら目は広く多くの情報を浅く手に入れることができ、

  耳は狭く多くの情報を深く手に入れることができるから。)

 

⑧時を待つのは環境の変化に流されるということ。

 波に揺られるのではなく、波に乗ることこそが必要。

 揺られた方が良かった結果にならない為に日々の学習が必要である。

 

 

 

 

 

 

 

 

マキャベリの君主論を読んで③

新しい政体を獲得した際は、獲得した者の古い政体に付け加えられた部分は、

同じ地域と同じ言語に属するものか、そうでないかのいずれかである。

同じものに属する時は、それを保持するのは極めて容易である。

とりわけ、住民が自由な暮らしに慣れていない時は。

そしてその地の領有を確実にする為にはそれまでそこを支配してきた

血筋を抹消してしまうだけで良い。何故ならば、その他の面において、

彼らの旧来の状態を維持し、風習に差異がなければ、人々は平穏に暮らしてゆくから。

周知のように、長年に渡って、フランスに迎合されてきたブルゴーニュ、ブルターニュ、

グァスコーニュ、そしてノルマンディーの例を見れば、それはわかる。

 

たとえ言語に差異が多少あっても、風習が似ていれば、相互に容易く認め合うことができる。

そしてこのように新たな政体を獲得したものが、そこを保持したければ、次の2点を守らなければいけない。

1つは古い君主の血筋を抹消してしまうこと。

2つは住民たちの法律も税制も変えないこと。

そうすれば、彼らにとって古くから続くことになる君主政体と、ごく短期間のうちに、

そこは一体化していく。

 

だが、言語、風習、制度に差異のある地域で政体を獲得した際には、

様々な困難が生じてくる。この場合にはそれらを維持するために大きな幸運と、

大きな器量とが必要になる。

この場合の最上かつ最強の手当ての1つは、支配地を獲得した人物が自ら

そこに住みつくことだ。

そうすれば、領有はより確実で永続的なものになる。

まさにトルコがギリシアにしたように。

それゆえ、新しい政体を維持する為に他の全ての秩序が彼によって

正しく守られたとしても、もしもそこへ行って住まなかったならば、

そこを維持することは可能でなかったはずだ。

 

何故ならば、現地へ行って住んでいれば、無秩序が発生しても

事態を目の当たりにして、あなたは素早く手当てをすることができるから。

その場に住んでいなければ、事態が大きくなってから聞き及ぶことになるだろう。

その時にはもう手の施しようがない。

また、現地に住まえば、その地域を重臣達に奪い取られる心配もない。

臣民は、君主への訴えにもすぐに応じてもらえる為、満足する。

したがって、恭順な心の者達は、ますます彼を慕うようになり、また、

逆心を抱く者達は、彼を恐れるようになる。

外部から新しい政体を襲おうとする者も、事を起こすのにいっそう慎重になる。

こうして、現地へ住み着くならば、容易なことではこれを失わない。

 

 

Neria社会論

 

現地へ住み着くということは心理学でいう心的距離の利用である。

人間は自分に物理的に近い人間に対して関心を持つようになる。

逆もまた然りである。

つまり反乱やクーデターの原因は身を削られた客観的事実から、

身を削られたと思い込む主観的事実に自己の意見、集団の意見に帰結して

これが大きな語弊を招くことによる。

以降の章では現君主に不満を持つ人民が他国に手を貸し侵略の手助けをするが、

結局侵略が成功して自身らの君主が変わったとしても理想には至らず、

元の生活に戻ろうとする試みが働くという説がある。

つまり、行動への膨大な衝動とは客観的事実にバタフライエフェクトが起こり、

主観的事実、自己の意見、集団の意見と膨張した、もとい暴走した感情を起因とする。

当然ながらここにおいて重要なのは間違いなく客観的事実のみだ。

君主の身としては、この客観的事実、つまり膨張した集団の意見の根拠となる

この根っこを排除することにより行動原理を失わせることができる。

しかしながら膨張した集団心理はもはや論理性を失っている。

そうなればもはや原典などは関係がなくなり、目的と手段が逆転し、あなたを

排除して自己心理を納得させなければ気が済まないだろう。

そして、これを遠くにいる際に聞き及んだ時にはもはや手のつけられない状態になっている、

とマキャベリは表現したのだろう。

当然これは人民にとっても君主にとっても良い結果とは言えない。

つまり鳥瞰的視点を持つ君主こそが人民を導かなければならない。

これには対の予防策が必要である。それこそ抑えの効かない感情の膨張に至る前に、

できれば客観的事実の段階でこれを指摘する者がいれば論理的に説得、及び

過ちを認めて修正する必要がある。

これは人民の為ならず自身と自身の君主の玉座の為である。

 

マキャベリ 君主論を読んで②

 

だが、振興の政体においては様々な困難が伴ってくる。

まず最初に、全面的に新しいものでなく、増築箇所のようなものでも、

この場合の政変は第一に振興の君主政体全てに付き纏う本来的な困難から生まれてくる。

 

すなわち、それら政変の元を成す困難は、事態がより良くなるものと思い込んで、

人民が支配者を変えたがることにある。

 

このような思い込みが彼らをして、彼に背かせ武器を取らせるのだ。

けれどもそれは思い違いである。何故ならば事態がより悪くなったことを

後になって彼らは身をもって知るのだから。

この様な事態の悪化は、新しく君主になった者が、軍事力によって、また新たな

獲得に伴って生ずる他の無数の破壊行為によって、住民に常に被害をもたらしてしまうという、

当然かつ自然な別の必然性からも生まれてくる。かくしてあなたは、その君主国を占領するに際して

あなたが被害を与えてしまった全ての者達を敵にまわすのであり、またそこへ導き入れてくれた

者たちを、彼らの思惑通りに満足させてやれないし、(哲;人間とは刹那的で短期的な報酬に具に反応する生き物である)

さりとて彼らには恩義もあるので、強い薬を使うわけにもいかないが為に、あなたは味方に

つけておくこともできない。何故ならば、その強大な軍事力に支えられたものでも、ある地域へ攻め入る時には

常にその地域住民たちの好感を必要とするから。

マキャベリ 君主論を読んで

第一章 君主政体にはどれほどの種類があるか、また、獲得されるか

 

全ての政体は、すなわち昔から今まで人々の上に政治権力を行使してきた

全ての支配権は、昔も今も共和政かさもなければ君主政である。

 

君主政体の種類

①支配者の血筋として長い間君主として続いてきた世襲の政体。

②振興の政体。(世襲政体が新たに獲得した支配地の政体を含む。)

②の振興の政体ができる支配地は、それまで君主の下で暮らすことに馴らされてきたか、

さもなければ自由であることに慣れてきたかであり、また、

獲得した際は、他者の軍備によったかさもなければ、自己の軍備によったか、

運命か力量のためである。

 

②よりも①の方がこれを保持する時の困難は少ない。

先祖伝来の統治形態を等閑にしないだけでよく、後は予測できない

変事に対しては、ただ適当に時を稼いでいれば良いのだから。

そうすれば、君主が並の器量の者であっても、よほどの強大な

権力が現れて彼から権力を奪おうとしない限り、己の政体のうちに留まることができるだろうし、

たとえ権力を奪われても、その簒奪者の身に不吉な影が忍び寄れば、それを取り戻せるから。

 

イタリアのフェッツェーラ公は支配地の中で君主としての家柄が古くから

続いてきたという理由によってのみ、1484年のヴェネツィアの攻撃に耐え

1510年の教皇ユリウスの攻略をも凌いだのである。

何故ならば生まれながらの君主は新しく君主になった者に比べて人を害する理由も

必要もあまりないから、それ故に一層人から愛されるようになる。

また、よほどの悪癖でもあって恨みを買わない限り、臣民に慕われるのは

自然の成り行きである。そして、また、支配権が古くから連綿と続く中では、

改革の記憶も理由も消えてしまう。何故ならば、1つの変革が次の変革を

構築するための噛ませ石を残していくから。